【はゆのトンデモ地球論】その17

にゃっかる はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第十七回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第一回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第十七回目に行きましょう♪

第十七回目のテーマは【人がゴミを捨てる理由・人がゴミを拾う理由・七】です。

















人がゴミを捨てる理由、人がゴミを拾う理由の最終回です。

















生き物は本来「自分本位」「自己中心」と考えるもの。
例え互いに生きる種が居たとしても、その多くは「自他共存」の考え。
自分が生きるためだけに他を利用し、その結果、互いの均等が図れ生きている。
お互いがお互いを利用し、生き抜いてきた。

だが、お互いが利用し生き抜くと言う考えは、実は脆い

相手を利用しているうちは、その価値がある。
しかし互いが利用する関係は、必ず先で相手に依存した形になる。
そして相手に依存した形で相手からの裏切りを受けたとき、
依存していた種は大きなダメージを受けてしまう。





昔の人はそのことを知っていた。
だから、人間は「自他共存」と言う考えではなく、「自他共栄」の考えを進めた。
「裏切り」ではなく「信頼」によって、その脆い部分を補ったと言える。
そして少なくとも日本人は近年まで、その考え方を持っていた。





トンデモ地球論14で「情けは人の為ならず」の例えを上げた。

 情けは人の為だけではなく、
 その情けはやがて自分に返ってくる。
 延いては自分の為である。


この考え方が「他者を助け、それが自分を助けることに繋がる」最たる例と言え、
相手を利用するのではなく、相手に依存するのでもなく、
共に生き、共に繁栄するという昔からの考え方を今に伝えている。





しかし・・・
人間もまた「生き物」であり、「動物」であり、「自然」なのだ。
考え方の本質は他の生き物と変わらず、「自分本位」「自己中心」だと言える。
他の生き物の為に自ら犠牲にするということは通常あり得ない。

他人に良いことをしても、「直接的な利益」を得ることにはならない。
やがて自分に返ってくる可能性があると知っていながら、
それが自分に返ってくる保障も無いはどこにも無いのである。
「直接的な富」も「直接的な地位」も得ることも出来ない。
目に見えて解かる、手に入る利益でなければ、その多くを実感できない。

そのため、「自他共栄」と言う考え方は
"教え"が無ければやがて色褪せてしまうのである。










そこで、昔の人は、「自分以外のモノの為に尽力した者」に名誉を与えることにした。
直接の利益となりうる「富」や「地位」は与えることは出来ないが、
「名誉」は他の者が認めることで与えることができる利益である。
その「名誉」を昔の人は「美徳」と言った。

「徳」とは何か。

 徳を持て孤立せず、また必ず隣に人あり
 徳を持って怨みに報う
 陰徳あれば陽報あり
 人を弄べば徳を失う。


「徳」の付く言葉は今に多く残っている。
この意味を見れば、「徳」が何であるかがわかる。

「徳」とは多くの人を引き付ける力であり、「徳」とは財産であり、
「徳」とは能力であり、「徳」とは平和である。
そして、その「徳」を感謝することも「徳」である。

位の高い僧を「徳の高い坊主」と言う言い方をした。
何年も修行して積んでいく坊主の徳と
人の為に良いことを行う事で得る「美徳」が同様の価値があるのである。
その時代に生きる人にとって、それはとても「名誉」なことであったと言える。
その「徳」の中でも「美しい」とされるのが美徳である。

そして、ここで得た「美徳」と言う名誉は
「いつかやがて自分に返ってくる利益」を受け取るための引換札なのである。





ちょっとした良いことがあったとき、
人は「徳をした(得をした)」と言う言葉を使う。

今の人はこの言葉の意味を
「運が良かった」「ラッキーだった」と言うニュアンスで扱うが、
実際の言葉の意味はそうではない。

昔、徳をしたことが、自分に戻ってきた

これが正しい使われ方なのだ。
自分が過去に行った「徳」が、自分に返ってきたのだ・・・。










一人々々が安全に幸せに暮らすための知恵。
それが「徳」であると言える。
そして、この「徳」は今で言う「マナー」の考え方に繋がるのである。

















「ゴミを捨てないこと」・・・これはマナーとして最低基準である。
そして、「落ちてるゴミを拾うこと」は「マナー」から一歩踏み込んだことになる。


だからと言って、全てのゴミを拾う必要は無い。


「他の人の為になることが自分の為になる」のは確かであるが、
それだけを行えば良いと言うことではないのだ。
まず、自分自身が真っ直ぐ生きることが大切なのである。
そして、自分自身が真っ直ぐ生きることで「余裕」が生まれたとき、
初めて「他の人の為になる行動」が取れる。
そうやって、他の人の為になる行動が取れたとき、
初めて「マナー」と言えるのだ。





簡単な話・・・

仕事に急いで走り回っているとき、
道端に落ちているゴミを見て拾えるだろうか?

おそらく、道に落ちているゴミにすら気づかないだろう。
そんな忙しいときに、ゴミをも拾おうとすれば、仕事に失敗することも目に見えている。

自分に余裕が無いときは自分のことに一生懸命になればいい。
自分の事に一生懸命なとき、自分自身は気づかなくても、
多くの人が周りに居て支えてくれていたはずなのである。

そして、自分の事が一段落して余裕が出来たとき、
自分は何が出来るだろうか・・・。



これが「マナー」なのだ・・・。

















「人がゴミを捨てる理由」・・・それは生き物である為
「人がゴミを拾う理由」・・・それは生活環境を良く保つ為
「古い考え方」・・・自他が協力し、共栄する為
「新しい考え方」・・・自他が均等を図り、共生する為

そして「マナー」・・・

















決して、「新しい考え方」が悪いわけでは無い。
だが、今まで人が蓄積してきた「古い考え方」をただ捨てて良いとも私は思わない。
by mikenekohanten | 2007-03-20 22:52 | 雑談