【はゆのトンデモ地球論】その22

にゃべ はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第二十二回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第一回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第二十二回目に行きましょう♪

第二十二回目のテーマは【ガキの使いを知らない大人、子供たち・5】です。

















さて、
先のトンデモ地球論20から、ここまで読んでいただけたのなら
いつから子どもたちは自然で遊ばなくなったのか?」と言う言葉を
容易に使ってはいけないと言う事が解かっていただけたと思う。

簡単な事なのだ。
今の子どもたちは「地球と遊ぶ楽しさ」を知らないだけで、
大人が「地球と遊ぶ楽しさ」を教えていないだけなのだから。





今の子どもたちを見て
いつから子どもたちは自然で遊ばなくなったのか?」と言うのは、
野球の存在を知らない国の子どもたち
何故、野球をしないのか?」と言うのと同じなのだ。
存在そのものを生活の中に取り入れていないのに、
それで遊べるはずが無いのである。





かと言って、
家でゲームばかりしている子どもに対して、
おまえたち、少しは外で遊んだらどうだ?」と言うのも間違いだ。
これは野球の存在を知らない国の子どもたち
"バットとボール"だけを与え、「野球をしてこい」と言っているのと同じだ。
野球のルールを知らない子どもたちがバットとボールを与えられたとき、
バットとボールを駆使して遊ぶだろうが、
"野球"として、本当の面白さにつなげるには難しいだろう。

むしろ、他に面白い事として頭にインプットされているゲームが既にあるのに、
それを捨てて、1から面白いものを探せと言われても、
子どもたちは面白いゲームに囚われて、
他に面白い物を見つけるなんてとても困難な事だと解かるはずだ。
恋は盲目と言うだろう。
好きな相手が既に居て、その相手と上手く遊んでいるのに、
その子を諦めて、別の相手を好きになれなんて容易には行かない。





となると、子どもたちに一つの選択肢を与えたいならば、
それがどうすれば面白いか、を教えなければならないのだ。





野球の存在を知らない国の子どもたち
野球の楽しさを教えたいのなら、
まず子どもたちに野球がどんなに面白いのかを教えなければならない。
だが、これはどんなに楽しいかを強制するものでもない。

どういうことか解かるだろうか?

野球が面白いという事を子どもに教えれるということは、
教える大人が野球の面白さを知っていなければならないのだ。
そして、教える大人が既に野球を楽しまなければいけないのだ・・・。
つまり、子どもが付いてこようが、こまいが、
まずは教える大人自信が野球で遊んで楽しまなければならない。
教える本人が楽しんで遊んでいれば子どもたちは思う。
「あの遊びは本当に楽しいのだろうか?」と。
そうしたときに、子どもたちにある程度のルールを教えて野球で遊べばいいのだ。

これがキッカケとなるのである。





こんなもの、心理学で言うところの集団心理と同じだろう?
心理学なんて難しく考えることは無いが、
街中で行列が出来ていて、皆が笑顔で楽しそうに待っていたら、
「この人たちは何に並んでるのだろう?」と気になるわけだ。

特に子どもの頃は、その感情が強い。
友達の子が持っているオモチャを見ると欲しがるだろう?
多感に楽しいものを求めている証拠なのだ。
周りが楽しそうに遊ぶことで、それを楽しいものだと理解するのである。

そして、これがキッカケになるのだ。





すると、野球と言うモノの存在を"経験"した、
野球の存在を知らない子どもたちの中でいくつかの心情が生まれる。
ある子は「また人数が集まったとき遊びたい」と思うかもしれない。
ある子は「野球は面白いっ!!! 皆を誘ってチームを作りたい」と思うかもしれない。
ある子は「体を動かすの疲れた。もう二度と野球なんてしない」と思うかもしれない。





話を元に戻すが
この段階で初めて、子どもたちは公平な判断が出来るのだ。
これでも、ゲームが好きだという子も居るだろうし、
外に遊びに行くのが好きになる子も居るだろう。
両方とも好きになる子だって居るはずなのだ。

私が先に言った
私は「昔のオモチャ」も「今のオモチャ」も同ラインで面白いと思う」とは
互いに面白いものを並べ、後は自由に選択できる と言う意味なのである。

















さて・・・
昔の子どもたちは「同学年」だけで遊ぶことは無かったのだと言う。
地域やその土地の子どもたちにもよるのだろうが、
大体、小学1年生~小学6年生までは一緒に遊んでいたのだとか。

すると、大抵、小学6年生のリーダ格が自分より年下を引っ張って遊びに行く。

高学年の子たちが木登りをするとしよう。
木には「おいしそうな木の実」がぶら下がっている。
高学年の子はもちろん、低学年の子にも取って上げるが、
低学年の子たちはやっぱり木を登り自分で取る事に憧れ、木登りにチャレンジする。
すると子どもは「親」を見て育っているため、
年長は「親が居ない今は自分が親の代わり」とばかりに面倒を見る。
木登りの上り方なんてものも教えるし、危険行為には注意を払う。

こうすることで、高学年の子は「自分が楽しみながら、まわりにも気を使う」と言う
自分より弱いものを助けると言う行動を身につけ、
低学年の子は「どうすれば楽しめるのか、どうやって遊ぶのか」と言う
有力な情報を教えてくれる相手を得ることになる。





今はどうだろうか?
少なくとも、同じ地域で遊んでいる子どもは少なくなった気がする。
遊ぶのは精々同じ学校の同学年の子。
年上や年下と遊ぶ子は少ない・・・
もしかすると、兄弟・姉妹でも家で居るときぐらいで、
普段外で遊ぶときは別々で遊んでいるかもしれない。

年上の人と会話が出来ない若者が増えていると言うのも、
こう言うところから来ているともいえないだろうか。

木登りを教えていた高学年の子。
だが、高学年の子と遊ばなくなったのなら、難しい遊びを一から考え付くのは難しい。
先祖が順々に蓄積してきた"子どもの知恵"がここで途切れることになるからだ。
野球を考えてみればいい。
野球と言う遊びの起源を遡ると古代に行き着く。
そして野球と言うもののルールが完成されたのは近年になってからだ。
野球が完成したのは、ここまでに"知恵"が蓄積された結果なのだ。
しかし、誰も伝達しなければ、それはまた1からに変わるだろう・・・。

一昔前は、ちゃんと子どもたちに「教える構図」が出来ていたのだ。
だが、今はそうではない。
だからこそ「教える構図」を大人が正しく理解して
それを正しく行動に移さなければならないのである。





今はその伝達が途切れた状態だと言える。
1から教えていかなければならないことは無いだろうが、
途切れた以上、それを元に戻すのは並大抵ではないだろう。
決して自分の代で元通りになると考えてはならない。
自分の代で結果がでると考えてはならない。

楽しい事を残し、それを広げる。
次の代が又それを広げる。
大人が子に伝え、子が孫に伝えていく姿。
これもまた道理であると言えるのだ。
by mikenekohanten | 2007-04-13 11:58 | 雑談