【はゆのトンデモ地球論】番外編1

にゃろやか はゆです♪

これは はゆのトンデモ地球論、番外編です。
ですが、後日トンデモ地球論本編に加えられる可能性があります。

 →【はゆのトンデモ地球論】
















Web上で知り合った私のお友達のブログの記事に
非常に興味深い内容の話があった。
記事の内容は
オオキンケイギクが特定外来種に指定された事による内容である。

特定外来種を在来種の「害」として処分するのか、
それとも、その花を愛でる事を「益」として助けるのか。
非常に考えさせられる記事であった。
そこで私個人としての考え方をここに記しておこうと思う。





番外編のテーマは「自然のあり方」である。




















自然生態園では頻繁にコゲラを見ることが出来る。
コゲラとは、キツツキの仲間で小型の鳥。
このあたりで聞こえる鳥の中でも特徴的なギィと言う声で鳴く。

コゲラが生息しているわけだから、
彼らがこの地で繁殖していてもおかしくは無い。
現に、園路を歩いていると、
コゲラが作った巣の跡というものが屡々目に入る。



今年も自然生態園の一人のボランティアさんが、
園路際に作ったコゲラの巣を発見した。
コゲラが出入りしている事もあり、新しく作られた形跡。
今も子育てに利用されている巣であると解る。
これは、お客様に観察してもらえる絶好のスポットになる。
ボランティアさんはコゲラが警戒しないように、
コゲラの巣より離れた場所に望遠鏡を据え、
そこから覗いてコゲラの観察を行うのだ。

私はタイミング悪く実際に出入りしているところを見ることは出来なかったのだが、
お客様の中には運良く出入りしている姿も見られたということで、
その巣の中でヒナがエサを求めていたのかもしれないと思うと心が躍る。






さて、ある日のことだが、
ボランティアさんがいつものようにコゲラの巣が見えるように望遠鏡を据え、
コゲラの巣をお客様に見ていただいていたところ、
お客様が急に騒ぎ出したのだと言う。



その巣穴から出てきたのは、コゲラではなく、大きなヘビだっそうなのだ。



中にいた筈のコゲラのヒナたちは食べられてしまっただろう。
お客様はその姿をみて「可哀想」と言っていたという。
当然の反応である。
そして、一緒に案内していた新人のボランティアさんもまた
お客様と一緒に「可哀想だ」と口にしてしまったそうだ・・・。














後から聞いた話なのだが、
このお客様と一緒になって「可哀想」と言ってしまった
新人のボランティアさんは酷く落ち込んでいたのだという。
事情を聞いてみると、どうやら、
後で熟練のボランティアさんよりお叱りを受けたそうなのだ。

確かにコゲラのヒナがアオダイショウに食べられたことに関して
非常に可哀想に思う感情はあるが、
アオダイショウもまた食べ物がなければ生きていけないのだ。
自然生態園のボランティアは
そういった面もお客様に伝えていかなければいけない。
そういった面を伝えるに当たり、
お客様と一緒になって「可哀想」だけを言っていたのではいけないということらしい。





まさにその通りである。
"自然"のあり方を伝えるのは一方的な物の見方ではなく、
その両対を写す物の見方が必要なのである。
そしてその上で「自分が何をしたいのか?」を明確にするのが
「地球保護(・・・一般的に言われる自然保護)」に繋がるのだと私は思っている。











実は「地球保護」を語る上で明確にしておかなければならない事が1つだけある。
それは第三者の目から見て、当事者同士の関係は「敵」も「味方」も無いという事だ。
自然に起こりえる事は飽く迄"自然"なのである。
そして、逆を返せば、
その当事者にとってはそれが「敵」であり「味方」であることになるのだ。

これを人間に置き換えるとこうなる。

人間に害をなす他の生きものは「害獣」であり「害虫」であり「害草」である訳だ。
そして、人間にとって益をなす生きものは「益獣」であり「益虫」であり「益草」となる。

これは別に人間にだけ当てはまる関係じゃない。

例えばコゲラである。
人はコゲラに対してヘビを「天敵」と言うが、
コゲラから見たヘビは正に「害獣」そのものだと言えるだろう。

それと同時に彼らにとって益をなすものもいる。
例えばコゲラはキツツキの仲間だが小型で硬い木に穴を開けることは出来ないから、
木をやわらかくしてくれる存在が必要な訳だ。
となると、木を齧って腐らせてしまう昆虫や胞子を回すキノコなどは
彼らにとって「益虫」であり「益菌」であると言える。




では、地球保護の観点から、人の言う「益」と「害」を見てみるとどうなるか?




ある天然記念物の植物を守っている"団体A"がいる。
その天然記念物の植物を守る為、それ食する害獣を"団体A"が駆逐する訳だ。
だが、その一方でその"害獣"とされている生き物を愛でる"団体B"があり、
"団体B"はその固体を守る為に"団体A"と対立するわけである。


この話を見れば見るほど「益」の関係が解かる。

この見方をそっくり180度入れ替えてしまえば、
"団体B"は一固体の動物を守ってるに過ぎず、
逆に"団体A"自体が守るべき動物に対し、"害獣"となっている訳だ。



私がトンデモ地球論で常に言っているところはココなのだ。



天然記念物を守ることが"自然"を守ることじゃない。
人に駆逐される動物を守ることすら"自然"を守ることじゃない。

両者とも、やっていることはただひとつ。
自分の利益の為に1つの固体を守っているに過ぎない。
団体Aにしてみれば天然記念物の植物が益草であり、
団体Bにしてみれば害獣として駆逐されている愛でるべき生き物が「益獣」なのだ。
それは害獣を守ろうとする団体Bは害獣にとって「益人」でしかなく、
また害獣を駆逐する団体Aは天然記念物の植物にとって「益人」でしかない。

ハッキリ言おう。
どちらも自分勝手なのだ。

そして、それこそが"自然"なのだ。



【はゆのトンデモ地球論】その7 で語った、ecoとegoの話に通じるだろう。





何度も言うが、今一般的に言われている自然保護は一方的観点からでしかない。
人間もその自然の中に含まれている1つの固体でしかないと解れば、
そもそも、自然なんてものは保護できるものではない事も理解できるのだ。
だからこそ、自然保護を謡う人間には絶対的に忘れてはいけないことがある。

自分が守りたい個体を「何故守りたいか」を主張するのは良いことであると思う。
それにより多くの仲間を見つけ守っていくことは非常に大切であるからだ。

だが、自分が守りたい個体を守りたいが為だけに、
それと相反する他の相手を「悪」として話をするのは
「地球保護(自然保護)」の観点から見て絶対に行ってはいけない事なのだ。

だから、自然保護を謡う人が絶対に忘れてはいけないのは
人間もまたその自然の中に含まれているということ。
その行為に対し、当事者同士として「敵」と「味方」に分かれていようが、
自然保護を謡う者としての立場から第三者の目から人にそれを説明するときは
必ず「中立」でなければならないのだ。



簡単な例えを一つ出そう。
「田んぼ」と「メダカ」の関係だ。

一昔前は、田んぼと言う空間はメダカが生息するには非常に適した空間であった。
だが、ある時期から農家の人たちは自分たちが作業しやすいように
田んぼは3面コンクリートで覆い、改築してしまったわけだ。
メダカが生息するには多くの面で不都合が出た現在の田んぼでは
メダカの姿は見られなくなった。
絶滅危惧すらされている生き物となってしまったのだ。

さて・・・
このメダカを絶滅の危機に追いやった「悪」は誰だろうか?

作業を効率よく行なうために改築した農家だろうか?
それとも農家を苦しめる政策を取り続ける国だろうか?
まさか、米を食べる日本国民を悪というのだろうか?


まぁ、私は極論しか言わないから、概ねこのような拗ねた例えになるが、
極論ではなかったとしても真意を辿れば、どれも「違う」だろう?

本当の意味での"フェア"って言うのは、
「正しくない(自然にとって正しくない)経済優先の経営やら大規模災害やらを含める」
なんて事が全く関係の無い事だとわかるだろう。




結論を言ってしまえば、生き物が生きているものだとしたら
何かを切欠に絶滅してしまうのも自然の摂理であり、
その絶滅しそうな生き物を何らかの切欠で助けようと思うのも
それもまた自然の摂理なのだ。
そして・・・それは人間にも言えることである。

私が尊敬している、とある大学の先生の言葉を借りるなら、
「なるようになる、なるようにしかならない」のだ。
余りにも突き放した言い方になるため、私はこの言葉が嫌いなので
私流に言い換えるなら「天命」と言ったところだろうか。

そんな中で、
一方を「悪」として自分の論を突き進むのは如何なものか? と私は思うわけだ。
守りたいものを守る為に感情が入るのは人として当然だが、
だからと言って自然保護を謡う者が、相手を「悪」にして良い道理は無い。



正に、今回のコゲラとヘビの関係だろう?

コゲラとヘビは敵対関係にあるが、それそのものは自然の姿でしかない。
人間だってイロイロな利害関係があって敵対するが、
人間が自然の一部である事を知っていればそれだって自然の姿なのだ。



以前、日光連山のゴルフ場建設反対運動をされていた、とある方のお話。
人が一生懸命生きる事こそが自然な姿である事を問い、
そのために文明が進む事、
そのために人が自然破壊をする事もまた自然な姿でもあると説いた上で、
だからこそ、守るべきものを守りたいと言った事。

「怒る事」と「相手を攻め立てる事」を混同するような自然保護を訴える人も多い中、
本当の意味で自然保護を訴えるものほど、
この言葉の本質を忘れたり、棚に置きっぱなしにしていてはダメなのだ・・・。



そして、最後の肝となるのは、
そのような"自然"の中の"人"として何を守っていくべきか?
それを考えるのは"個々の人の心"であると思うのだ。








最後に。
コゲラの巣から出てきたヘビを見て、「可哀想」と思うのは当然の感情である。
自然生態園のボランティアをする上で、
お客様の前でその言葉を口にするのは間違った行為だったかもしれないが、
自分が守りたい地球を見つめた上で、
それを「可哀想」と見るのは「地球保護」の観点から言えば
非常に大切な心のひとつなのである事もここに記しておく。
by mikenekohanten | 2007-05-23 15:14 | 雑談