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にゃろみあ はゆです♪

これは はゆのトンデモ地球論、番外編です。
ですが、後日トンデモ地球論本編に加えられる可能性があります。

 →【はゆのトンデモ地球論】

















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特定非営利活動法人どんぐりネットワークと呼ばれる団体が
毎月、「自然の中へ」と呼ばれる会報誌を発行している。

その会報誌の9月号(第25号)にコラムを書くことを依頼され、
私が書いたコラムが会報誌に掲載された。

今回はその本文中に書ききれなかった追記をここに記載しよう。






夕暮れがずいぶんと早くなってきて、
秋を感じる季節になりました。
それに伴いドングリランドの周辺でも
秋の夜長に無く虫の音色を聞く機会がずいぶんと増えてきました。
さて、秋の虫の歌で有名なのは「虫のこえ」です。


「虫のこえ」

 ①番
 あれ、マツムシが鳴いている。
 ちんちろちんちろ、ちんちろりん。
 あれ、スズムシも鳴き出した。
 りんりんりんりん、りいんりん。
 秋の夜長を鳴き通す、
 ああ、おもしろい虫のこえ

 ②番
 きりきりきりきりコオロギや。
 がちやがちやがちやがちやクツワムシ。
 あとからウマオイおいついて、
 ちよんちよんちよんちよん、すいつよん。
 秋の夜長を鳴き通す、
 ああ、おもしろい虫のこえ



この歌の歌詞の一部は、
1932年に当時の文部省によって書き換えられています。
②番の歌詞の「きりきりきりきり」の
後に続く歌詞は当初「キリギリス」でした。
しかし、今は「コオロギや」に書きなおされています。
一体どうしてでしょうか?

実はキリギリスは通常昼間に鳴く昆虫で、
「秋の夜長を鳴きとおす」ことはありません。
つまり、生態系的に歌詞として間違っていると言うのです。
ならば、作詞者が間違えていたのか・・・と言うとそうでもないようで、
古い昔はコオロギの事をキリギリスと呼んでいたようなのです。
例えば、百人一首などには

 「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねん 藤原良経」

ともあり、霧の夜に鳴いている姿を詠んでいます。
また、漢字で書くとコオロギもキリギリスも「蟋蟀」と書くところからも
ずいぶん昔から混同され、間違われてきたとも容易に想像できそうです。

作者不明の「虫のこえ」と言う歌ですが、
生態系と今の呼び名を重視して
「きりきりきりきり コオロギや」と歌うのが良いか、
言葉遊びと語源を重視して
「きりきりきりきり キリギリス」と歌うのが良いのか。
皆様はどのように思われますか?

引用元:特定非営利活動法人どんぐりネットワーク会報「自然の中へ」第25号

















この「虫のこえ」の歌詞の書き換えにはもうひとつの説がある。
キリギリスの鳴き声だ。
キリギリスの鳴き声の聞きなし「チョンギース」である。
決して「キリキリ」とは鳴かない。

では、コオロギはどうかと言うと、種類によって違う。
一般的に数が多いエンマコオロギなどは「コロコロコロ」と鳴く。
コオロギと呼ばれるのも、その鳴き声からと言う説が一般的であるが、
コオロギは種類が多く、その鳴き声も多彩で、
コオロギと呼ばれる仲間には確かに「リリリ」や「キリリ」と鳴く個体もある。

なので、「コオロギや」に換えられたと言うのだ。



先のコラムにあげた説にせよ、この説にせよ、
現在の生態と名前にそぐわない為に変更になっていると言う訳だ。






ちなみにだが、「蟋蟀」と漢字で書く。
読みは「しっしゅつ」であるが、コオロギともキリギリスとも当てる。

漢字の意味を紐解くと
虫+悉(ことごとく)  虫+率(ひきいる)となるわけだが、
もっと昔は「鳴く虫の総称を蟋蟀としていた」と言う説もある事から、
数多くの固体が鳴き合っている姿を「悉く率いている虫」としたのかもしれない。
by mikenekohanten | 2008-09-09 17:32
にゃらたき はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第36回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第36回目に行きましょう♪
今回のテーマは「シガラミと先行投資的考え5」です。

















今回は国民年金シガラミの関連を話す。

最近の若者の間では国民年金の支払いを行なわない者が増えている
少し前にニュースなどにも多く取り上げられた話であるが、
これがまさにご近所付き合いのシガラミと保険業と言う商売におけるシガラミの
中間に位置する問題となっていると言える。

前回に締めくくった言葉である。
ここで、問題となる国民年金本来の目的を説明しようと思うのだが、
恐らく、今国民年金を支払いしていない者も、国民年金を支払いしている者も、
この国民年金本来の目的を正しく理解していないのではないかと思われる。

果たしてあなたは、国民年金本来の目的を理解しているだろうか?










年金と言えば、若者の間では
定年になった後に生活していくために保障されるお金」と言う認識であるだろう。
もしかすれば、今、年金で生活をされている年配の方なども同じ認識かもしれない。


しかし、これは全くの間違いである。


国民年金の本来の目的、即ち基本概念は別にある。
国民年金の基本概念を一言で言うのであれば、
日本に住む一人一人が互いを助け合いましょう」だ。

日本に住む民の1人が何らかの理由で生活が困難となるとき
その他のの国民達がそれを補助・支援しよう、と言う考え方で成り立っている。

例えば、定年後に貰う年金・・・と一般的に言われている老齢基礎年金
これは年齢的に仕事を行う事で収入を得ることが難しくなった国民に対し、
元気で働ける国民達がそれを補助・支援しようと言う事になる。

また、怪我や病気をしたときなどに支払われる障害年金でも同様で、
怪我や病気をして仕事に支障が出来たなどの国民に対して、
元気で働ける国民達がそれを補助・支援しようと言う事になる。


これが国民年金本来の目的である。










上で語った事は、実は物凄く当たり前の事だ。
しかしながら国民年金のシステムから、多くの者は目的を見誤ってしまう。

その国民年金のシステムとは、老齢基礎年金にある
険料納付期間が25年以上あるものが老後に年金をもらえる仕組みである。
この為、本来であれば「お互いがお互いを助ける為の年金」である筈が、
このシステムの所為で「自分の老後の為の年金」に目的が摩り替わっているのだ。





つまりは、先に 【はゆのトンデモ地球論】その35で語った事だが、国民年金は、
本来、国民達が互いに支えあう為のシガラミから
"お金"と言う基準を置き、
それに表される"明確な対価"を求める傾向に変わってきている
と言えるのである。






もちろん、しっかりと年金を払い続けた者と
あえて支払いを行なわなかった者とを明確に区別する点では必用なものである。
しかしながら、「将来的に国民は老後に○○円、もらう事が出来ますよ」と
出鼻にニンジンをチラ付かせるやり方は間違いと言えるだろう。

これを見ると実は以前に語った、
【はゆのトンデモ地球論】その18でも通じると事では無いだろうか。

仮に、老齢基礎年金を「自分の老後の為の年金」が目的とするなら、
日本人は毎年、定年を迎えた一定数量の老人が死亡する事が前提であり、
それと同時に毎年、新しく一定数量の子供が生まれてくる事が前提で成り立つ。
だが、現在それが崩壊しつつあるのが解かるだろう。
日本人の平均寿命は伸び続け、更に少子化で新しく生まれ続ける子供は減る。
結果として一人当たりが負債する支払い額が上がる。
更に、ここまで変化の著しい状態で、更に物価の変動などが加わるであろう状態。
つまりは将来的にどのような結果になるなど、推測できても保障は出来ないのだ。

少子化、少子化と叫んでは居るが、年金問題だけで言えば、
仮に少子化が解消され、子供が増えれば人口総数が増え、
更に日本人の平均寿命が延び続ける事が考えられるとすれば、
未来はどんどんと人口が増えていく結果になる。
ある一点で死亡率と出産率の均等が取れる時点が来る可能性もあるだろうが、
私には無限連鎖講に近いニュアンスに見えて仕方ない。

だからこそ、若者は「将来、幾らもらえるか解からないから」と言うのだ。
目的が「自分の老後の為」だとするのなら、
働けるときにしこたま貯金するだけで良いのだから。
そう言う経緯から若者が年金を支払わなくなるのである。





国民年金が、法的に定めたシガラミであり、
元気で働ける者が、何らかの理由で働けない者を補助・支援すると言う目的である以上、
国はそう言った告知と、それに合わせた教育を行なうべきなのである。

ここでも以前に述べた
【はゆのトンデモ地球論】その14の「情けは人の為ならず」の話にも通じ、
【はゆのトンデモ地球論】その17で話た「徳」の話にも通じるのだ。





個人的には、"愛国心"や"美しい国"なんて言われてもピンと来ないが、
そう言う点が改善されたのなら、もしかすると、
愛国心(国民が互いに手を取り助け合う国)なんて、
比較的近くに見え隠れしているのではないだろうかと思えるのだ。

まぁ、近年のニュースで流れる
社保庁関連の問題を見ていれば、それも虚しくなる一方ではあるが。
by mikenekohanten | 2007-11-30 12:48 | 雑談
にゃったんこ はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第35回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第35回目に行きましょう♪
今回のテーマは「シガラミと先行投資的考え4」です。

















これまでシガラミと言う言葉の意味やモノの考え方をいくつか語ってきた。
その考え方を要約すれば、次のようになる。

 シガラミとは、自らの現状の立場を維持する為、
 またはより良いものとする為に
 他の者に力を貸す、または他の者から力を借りる行為である。

一本の杭であれば横からの力で簡単に倒れてしまうが、
それが数本手を取るように柵を付ければ、
お互いがお互いを支えあうようになり、頑丈で簡単には倒れなくなる。

ここから、シガラミの意味を再認識し、
人の言うシガラミには正のイメージと負のイメージがあることを説明した訳が、
実はこのシガラミと言う言葉の意味やモノの考え方を
商売として成立させている企業がいくつかある。

その企業が何か解るだろうか?


















代表的なものとして言えるのは「保険業」である。

















システムや詳細は各保険業や取り扱う保険によっても変わってくるのだろうが、
基本的な概念は概ね変わらない。
客が加盟する条件で金銭を支払い、それをプールする。
加盟する客が増えれば、プールされる金額は増える。
そして、その加盟された客の中で金銭が必要となった時、
そのプールされている資金から使用する。

どうだろうか。

まさにシガラミの基本的概念をそのまま商売にしていると言えないだろうか。
互いが互いを支え合う条件の元に金銭を支払い、
一人が何らかの理由で その金銭が必要になった時、
互いが助け合うという条件の元で、プールされた資金を利用する。
このとき、保険業はその中央に入り、誰か一方が損をしないように
管理運営を行なっていると言う訳だ。

近年放映されている保険業のテレビCMに興味深いものがある。
背広を着た男女が、ただ只管に手を取り整然と並んでいる。
そして並んだその先には自転車で転んだ男の子が泣いている。
やがて整然と並んだ人の柵の先の女性が子供に手を差し伸べ起こしてあげる。
こうやって保険業とシガラミの関係を見たとき、
この保険業のテレビCMは何やら含むモノを感じずには居られないだろう。




さて・・・
先にも述べたとおり、
近年ではご近所付き合いのシガラミが希薄化していると言われているが、
それと比べると、近年の保険業は非常に様々な種類が生まれ
充実しているように感じないだろうか。

この、希薄化するご近所付き合いと
充実化する保険業の大きな違いとは一体何であるのか?





それは対価である。





保険業と言うのは商売である。
つまり、金銭を払うことで、それに見合った役務を受ける事が出来る訳だ。
ここでは、その無形の商品ともいえる保障が商品となる。

逆にご近所付き合いのシガラミは商売では無い。
その為、漠然と互いが互いを助け合う信頼と言う名の条件を持つものの、
その対価は明確なものでは無く、保障もないのだ。

つまり、今の人々は"お金"と言う基準を置き、
それに表される"明確な対価"を求める傾向にある
と言えるのである。



こういった考え方を象徴しているのが、近年に言われた国民年金の話である。
最近の若者の間では国民年金の支払いを行なわない者が増えている
少し前にニュースなどにも多く取り上げられた話であるが、
これがまさにご近所付き合いのシガラミと保険業と言う商売におけるシガラミの
中間に位置する問題となっていると言えるのである・・・。





"国民年金の考え方"を次回に続こう。
by mikenekohanten | 2007-11-20 18:48 | 雑談
にゃいでぁ はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第34回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第34回目に行きましょう♪
今回のテーマは「シガラミと先行投資的考え3」です。

















さて、前回まででシガラミと言う言葉の持つ意味を説明してきた。
これを私たちの生活に入め込んでみても面白い事が解かると思うのだが、
ここでは少し、子供たちに入め込んで考えて見たいと思う。





一昔前に「挨拶をしなくなった子供たち」と言うキーワードが随分流行ったように思う。
皆さんはこのキーワードを耳にした事があるだろうか?
近年になればなるほど聞かれなくなってきた事なのだが、
実はこの「挨拶をしなくなった子供たち」もシガラミを考えればその意味が見えてくる。










まず、子供たちの行動にシガラミを当てはめる前に、少し「挨拶」について考えよう。

挨拶とは何か。
いろいろな考え方はあるかもしれないが、
大きく言われることはコミュニケーションであると言えるだろう。

もう少し正確に言うなれば、コミュニケーションの導入部であると言える。

例えば、「おはよう」は「お早いですね・・・・」と言う言葉が短縮されたものだが、
本来であれば「お早いですね・・・」の後に日常会話などの言葉が続く。
つまり「あなたと会話します」と言う意思表示こそが挨拶といえるのだ。

例えば挨拶は「おはよう」「こんにちわ」「こんばんわ」以外にもある。
有名なもので言えば大阪では「もうかりまっか?」と言う言葉がある。
おそらく今、実際に使っている人は少ないのだろうが、
商業都市とも言える大阪ではコミュニケーションの導入部に
「おはよう」などの言葉よりも「もうかりまっか?」の方が
都合が良かったのだろうと想像することが出来る。
ちなみに、こう言ったコミュニケーションの導入部に成り得る言葉は地方にいくらでもある。
私は香川県の出身であるが、
香川では「なんがでっきょんな?」がコミュニケーションの導入部だ。
「何か出来ているのですか?」から会話に入るための導入部と言える。

また、私は挨拶が持つ意味の一つにコミュニケーション以外に、
仲間意識が大きく含まれると思っている。

先にあげた大阪の方言や香川の方言は、今でこそ通じる点もあるかもしれないが、
他の県に住んでいるものが行き成り言われても通じないだろう。
つまり、挨拶はコミュニケーションの導入部であると共に、
相手が自分の仲間であるのかを識別する方法でもあったのではないかと私は考えている。



続いて、「挨拶」と言う漢字の持つ本来の意味を見てみよう。
 「挨」は押しのける。
 「拶」は迫りよる。
つまり、競り合い押しのけあう姿が「挨拶」である。
これは元々、禅における問答から来る言葉で、
位の高い僧が修行僧に問答を行い、
返答から相手の考えを知り、その悟りの深さを試した行為から来ている。
ここから、問答をする事は互いに情報を交換する行為に繋がる事や、
互いに敵意が無い事を示す事、仲間である事の確認と言った意味合いから
「挨拶」を行なうようになったと言われている。

平たく言えば、互いが常に情報交換をする事で相手を知る為の手法と言える。
茶道などには一挨一拶と言う言葉で残っているのも頷ける。
一挨(一つ押す・一回、話を聞く)と一拶(一つ迫りよる・一歩相手に近づく)



ここから見ても、やはり「挨拶」がコミュニケーションの導入部として大切である事、
また互いの人間関係を円滑にするところが見え隠れする。
これが「挨拶」の本来の意味だと言えよう。










さて、本題に戻ろう。
少し前に言われていた「挨拶をしなくなった子供たち」だが、
本当に挨拶をしなくなったのか? と問えば、それは嘘となる。
子供たちはちゃんと挨拶をしているのだ。
学校に行けば、親しい友達に「おはよー」と挨拶している。
以前、仕事柄、小学校に出入りする事が多かったが、
登校時の子供たちの賑やかな挨拶の声は私自身が良く知っている。

では、子供たちが挨拶をしているのであれば、
「挨拶をしなくなった」とはどういうことなのか?

この「挨拶をしなくなった子供たち」と言う言葉は
正確には「子供たちが挨拶する相手を選び始めた」ではないだろうかと思う。

先のトンデモ地球論33で述べたことだが、
正のイメージのシガラミ負のイメージのシガラミの関係である。

挨拶をしなくなったと言われる子供たちに、この正と負のイメージを当てはめると、
友達同士の挨拶はまさに正のイメージのシガラミにあたる。
互いが情報交換を行い得ることで互いが得をする存在なのだ。
即ちなのである。

では、挨拶をしなくなったのは?
負のイメージのシガラミで言えば、「挨拶をする必要のない相手」となる。

挨拶を行なうのは先にも言ったとおりコミュニケーションの導入部と言える。
つまり、コミュニケーションを取る必要がない相手に挨拶をする必要はないのだ。

近所の子どもが挨拶をしても返事をしない、と言うのであれば、
その近所の子どもはあなたに対して「挨拶する必要がない」と思っているのである。

もちろん、小学生の子供がそこまで深く考えているとは思わない。
だが、親しい友達には積極的に挨拶をする姿を見れば解かるだろう?
正のイメージのシガラミ」はであるが、
負のイメージのシガラミ」は苦(またはどうでも良い事)であるのだ。

人生経験の少ない子供たちは容易にを選ぶ。
自らの意思でを選ぶものは少ない。

こう考えれば「挨拶をしなくなった子供たち」と言うのは間違いで
正確には「子供たちが挨拶する相手を選び始めた」と言う事が解かるのだ。










この結論が出れば、逆に一つの疑問点が浮かんでくるだろう。
それは「では、何故昔の子供たちは挨拶をしていたのか?」である。

それは・・・言うまでもなく簡単な事だと言える。
昔の子供は負のイメージのシガラミを持っていたからだ。

昔の子供たちを取り巻く環境、近隣の環境を見れば、それらがすぐに理解できる。
昔は「町内会」や「婦人会」、「農会」や「子供会」などの地域ぐるみの付き合いが強かった。
近所に住む人たちが家族ぐるみの付き合いをしているのはもちろん、
近所に住まない人であっても、どこの誰であるかを把握しているケースもあるだろう。
そこで親は子供たちの躾として、挨拶の徹底をしたのだ。
知らない人でも挨拶をする。
地域ぐるみでの付き合いを円滑に進めるためには、その躾は必要不可欠だったのだ。
更に、子供たちは子供たちで、その負のイメージのシガラミを知っていた。
遠くの場所で悪戯をしても、大抵その悪戯行為を行なった事は親の耳に入ってくる。
つまり、どこで誰が見ているか解からない状況だからこそ、
子供たちもまた知らない人にも挨拶をしていたのだ。










諺に「旅の恥は掻き捨て」と言う言葉がある。
旅をしていてお金がなくなったら物乞いをしてでも国へ帰る」と言うのが
本来、使われるべき意味合いであるが、
現在においては一般的に
旅先でどのような恥ずかしい事をしても、羽目を外しても、
そこに留まるのは一時的なことであり、自分を知るものもいないから
恥を掻いても、捨てて帰れる
」と言う意味で使われる。

つまり、前者も後者も平たく言えば、
旅先では自分を知るものがいないから
少々恥ずかしい事をしても問題ないという意味だ。

これを反して言えば、
地元では自分を知るものが多くいるから、
恥ずかしい行為をしないようにしなければいけないという意味に変わる。

こういった諺を見ても、昔の人が「地域」に対してどのような思いなのかが解かるだろう。
それが子供たちの挨拶にまで気を配る躾になっていたのである。
そしてそれは地域のシガラミと言えるのだ。










では、再び話を"表"に戻そう。
何故、今の子供たちは容易に負のイメージのシガラミを捨てる事が出来たのか。

まさに地域ぐるみの付き合いと言えるシガラミが欠如したのだ。
だから親たちも、子供たちの知らない相手への挨拶に対する躾が弱くなり、
子供たちも親から強く躾けられないため、
自ら負のイメージのシガラミを背負わないのだ。

簡単な話だ。
あなたは隣人の家族構成がわかるだろうか?
隣人がどのような仕事をしているか解かるだろうか?

一つ例えを出そう。
昔は同じ町内の人が亡くなれば、
御通夜や御葬式に町内に住む人たちが借り出された。
もちろん、御葬式にも顔を出した事だろう。
今も田舎に行けばその様な地域はある。

だが、今の時代、
同じ町内の人が亡くなって御通夜や御葬式に借り出される人がどれほどいるだろう。
身内でも知人でもない同じ町内の人の御葬式に顔を出す人がどれほどいるだろう。

先に説明したように「挨拶」は「コミュニケーションの導入部」である。
そして「挨拶」から得るのは「互いの情報」である。
つまり、隣人の情報を全く知らないと言うことは、
隣人と「コミュニケーション」が取れていないと言う事。
即ち、「コミュニケーションの導入部」といえる「挨拶」が隣人と出来ていないと言うことだ。



親が負のイメージのシガラミを捨てようとしている現在に、
子供たちが負のイメージのシガラミを捨てたとしても、それは当然の結果であると言える。

そして、近年、挨拶しなくなった子供たちの話すら聞かなくなってしまった。
最早、挨拶をしない事自体が当たり前となりつつあるのだろうか。

















次回に続く

















・・・ところで、
近年のテレビニュースを見ていると
結構「恥」な事をやっている人が多いと感じる・・・
旅の恥は掻き捨てと言う言葉はもう使えない時代かもしれない。
旅に出るまでもなく、自分を知る近隣がいないのだ・・・。
by mikenekohanten | 2007-10-31 18:52 | 雑談
にゃこん はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第33回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第33回目に行きましょう♪
今回のテーマは「シガラミと先行投資的考え2」です。

















まずは、みなさんの身の周りのシガラミを想像してもらいたい。
どんな些細な事でも良いし、負のイメージでも構わない。

想像する事が出来たであろうか?

これが想像できると言うことは、
実は人間が人間世界に置いて、人間らしい人間関係を築いている証拠である。










いくつか、よくある、よく聞かれる人間関係のシガラミを書き出そう。

一番良くあるパターンは親しい相手との関係だろうか。
例えば、親しい相手から仕事を頼まれたとすると、
あいつにはいつも世話になっているし、この仕事を請けよう」となる。

もちろん、人間関係のシガラミは逆の立場でも存在する。
上の例えが逆の立場になれば、
彼には、いつも手を貸しているから、今回は彼の力を借りよう」となる。

上の例えを、A氏とB氏の2人の関係とすれば、
互いが利害関係の状態にあると言える。

更に、この上記に見られる関係は、
人間が生活していたら当然のように生まれる関係だと思えないだろうか?





ここではあえて"利害関係"と言う表記を使った。
それはシガラミが負のイメージで使われる事が多いためだ。

上の場合、利害関係は直接お互いに現れ、
さらに「お互い様(持ちつ持たれつ)」と言う概念であるため、
負のイメージはまず現れない。
これを、仮に正のイメージとしよう。





では、負のイメージに当たるシガラミはどうだろうか?

実は負のイメージが付きまとうシガラミは基本的に
上下関係による利害関係」、または「間接的な利害関係」によって起こる。
上下関係による利害関係や間接的な利害関係において、よく聞く例えを出してみよう。

とんでもなく、傲慢で嫌いな女性がいて、関係を絶ちたいが、
 その女性は自分の夫の会社の上司の妻であり、その関係を絶つことが出来ない


これは、上下関係に利害関係と間接的な利害関係をあわせた例えだ。
まず上下関係による利害関係だが、上の例えでは
自分の夫の上司の妻であるため、自分より立場が上の相手だと言える。
そして、間接的な利害関係だが、上の例えでは
直接自分と相手の関係では無く、一度、主人と上司の関係を通した先の関係になる。

一つずつ関係を解していくと、次のようになる。

 上下関係の場合
  本当は好きな相手では無いが、立場上自分より上であるから付き合う。
  立場が同じか、相手の立場が自分より下であれば、付き合う必要はない。



 間接的な利害関係
  本当は好きな相手では無いが、自分の親しい人の顔を立てて付き合う。
  間に自分の親しい人がいなければ、付き合う必用はない。







どうだろうか?
正のイメージ負のイメージに生じる差。
この違いが何であるか解かるだろうか?










実はこの関係には「」と言う意識がとても関係している。

正のイメージから表される事は、
自分に帰って来る「利益」を明確に増やす事に言える。
いつもお世話になっている、これからもお世話になるかもしれない」と言う
実質利益的なものを含むのはもちろん、
彼と付き合うのは楽しいし、不快な思いもしない。信頼できる・・・・」や
彼の事が好きで、彼に好意を持ってもらいたい」と言った
非実質利益的(有益的)な物も含む。

そして、それに絡む「」は
今現状をボーダーラインとすると、
今よりも、より楽しく、より楽になる為の行為だとわかるはずだ。




では、負のイメージから表される事はどうだろうか?
そうなると、明白だ。
負のイメージからは、
自分に帰って来るであろう「損失」を明確に減らす事に言える。
関係を壊す事により、自分に起こりえる被害が怖いから」と言う
実質損失(損害)的なものが言える。

そして、それに絡む「」は
今現状をボーダーラインとすると、
今よりも、より苦しくなりたくないと言う行為に行き着く。



人は何故、負のイメージのシガラミを拭いたいのか。
それは、シガラミが苦痛であるにも関わらず
我慢しなければそれ以上の苦痛が待っているためなのだ。



始めに私は、
みなさんの身の周りのシガラミを想像してもらいたい」と言ったが、
あなたが思い描いたシガラミを上に当てはめてみて、
どのようにうつるだろうか?





あなたが拭いたいシガラミは?
あなたが大切にしたいシガラミは?

















次回に続く
by mikenekohanten | 2007-09-29 16:47 | 雑談
にゃこん はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第32回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第32回目に行きましょう♪
今回のテーマは「シガラミと先行投資的考え」です。

















今回のテーマはシガラミだ。
あなたなら、シガラミと聞いてどのような事を想像するだろうか。

普通、人間関係のシガラミという言葉を想像しがちで、
絡み付いて離れない、逃れたい、自由になりたいと言う
「負のイメージ」で使われる事が多いだろう。

そんなシガラミだが、本来の意味は柴絡みから来ている。


柴絡みとは、昔の水流を調整する方法である。
川の流れの勢いを徐々に抑えるために、川に杭を等間隔に打ち込み、
その隙間に柴(木の枝)などを敷き詰める。
そうすると、川の流れは柴絡みにぶち当たり、
しかし、柴と柴の隙間から徐々に流れ出る。
こうすることで貴重な水を蓄積したり、強い勢いの川の水を抑えたりするものである。
田んぼに水を誘導するときなどにも、これに似た方法を使われる事があるようだ。
徐々に水が抜け出る特性を生かして、
数多くの田んぼに均等に水を行き届かせる方法だろう。

柴絡みが転じてシガラミと呼ばれるようになるが、
現在では漢字で書くととなる。
柵(さく)と言えば多くの人も解かるであろう。
まず地面に木や竹の杭をいくつか打ち込み、更に横木を括り、強固にしたものだ。
この柵をシガラミと読むのは造園業に多く、
垣根のようなものでさらに強度を必用とするものをシガラミと呼ぶ。


さて、
現在の「負のイメージ」で使われるシガラミの由来はこの柴絡みから来ている。
杭の一本々々に絡みつく柴を見て、
大きな流れの水でも頑丈で崩れない、絡み付いている姿を「しがらむ」とした。
これを、「振り解きたくても解けない」と言う意味で使われるようになり、
現在の「負のイメージ」が付いてしまったようだ。

確かにこういった言葉の由来は間違いでは無いのだが、
私はいつも思うのだ。
人の言う人間関係のシガラミを何故負のイメージでしか捉えられないのか・・・と。

















私は最近のTVや新聞で目にするニュースを見ると考える事がある。
実は、今日本人に最も欠落している事は、
人間関係のシガラミなのではないか・・・と。

シガラミという言葉の由来を考えると解かってくることがある。

杭の一本々々が一人の人である。
杭が適当に1本で立っていても水の流れを堰き止める力にはならない。
しかし、その個々に立っている一本々々を柴で繋いだらどうだろうか。
その柴が多く繋がり、強固になったらどうだろうか。
一本が二本、二本が三本と増えたらどうだろうか。

一本では簡単に倒れてしまう柵でも、
二本になれば、三本になれば。
一人で簡単に転んでしまって、二人で支えれば、三人で支えれば。
柴が絡むように強固に、互いが手を取りガッチリと離さなければどうだろうか。





これが、シガラミの本来の意味なのだ。

















次回は、昔の人の考え方におけるシガラミを語ろう。
by mikenekohanten | 2007-09-20 15:45 | 雑談
にゃるさない はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第31回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第31回目に行きましょう♪
今回のテーマは「ルールとは? その8」です。

















さて、
特別天然記念物に指定されている動物が怪我などをしていて、
それを助けようとして触れること、または病院などに移動させること、
これは文化財保護法違反になるのか?

結論から言うと、ならない。
何故言い切れるのか?

理由は簡単だ。
文化庁に問い合わせた。
天然記念物の生物の部門の担当者が明言した。
前置きはいくつかあったが、要約すれば
善意で助けようとしたことが証明できるのであれば、罪に問われることは無い。
善意で助けようとした者を罪に問うこと自体があってはならない
」と言う回答であった。
(平成19年6月に問い合わせた。ここでは担当者の名前はあえて出さない)




実は文化庁に問い合わせるまもなく、
この事例が犯罪にならないことは初めから解っていた。

文化財保護法と言うものが日本には存在するのだが、
その第13章罰則に次のような一文がある。

 第196条
  史跡名勝天然記念物の現状を変更し、又はその保有に影響を及ぼす行為をして、
  これを滅失し、き損し、又は衰亡するに至らしめた者は、
  5年以下の懲役若しくは禁錮又は30万円以下の罰金に処する。

つまり、簡単に言えば、
特別天然記念物を勝手に持ち出したりして、その環境を変えたり、
殺してしまったりした者には罰則があります、と言う一文だ。
(史跡名勝天然記念物は生物以外の物も含まれるが、ここでは生物を当てはめている)

ここで明言されている行為は
例えば故意に持ち出す密猟であったり、過失に殺してしまう事故などである。
つまり、悪意があるもしくは悪意は無いが個人の不注意により起きる事例だ。

それも、この法律が出来た経緯を考えれば容易に想像が付くではないか。
特別天然記念物に認定されれば、その生き物の商品価値を高まる。
そうなると、その生き物が欲しいと思う悪意を持ったコレクターが現れる可能性がある。
むやみやたらに捕まえる事が出来なくなれば、
悪意を持ったコレクターなら大金を叩く事も考えられ、
それにより動く密猟者が出てくることも容易に考えられる。

だからこそ、上記のような罰則が生まれるのだ。
死滅している特別天然記念物を移動させると森林法違反になるのも、
悪意を持った骨をコレクションしているコレクターなどが、
特別天然記念物を殺してから持ち出すと言う事が出来ないようにするための
法であると容易に考えが結びつく。

こう言った法律が出来た経緯は、そこにある。
特別天然記念物を動かすことが対象なのではなく、
それを持って犯罪を行なう者を取り締まる為の法律なのだ。

それが証拠に、文化財保護法には次のように定めている

 第125条
  史跡名勝天然記念物に関しその現状を変更し、
  又はその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、
  文化庁長官の許可を受けなければならない。
  ただし、現状変更については維持の措置又は非常災害のために
  必要な応急措置を執る場合、
  保存に影響を及ぼす行為については影響の軽微である場合は、この限りでない。

基本的には、文化庁長官の許可が必要であるが、
応急借置をとる場合はその限りではないと明言されている。





しかし、どうにも解釈を違える人が多いようなのだが、 
文化財保護法の第196条を
「善意で怪我をしている動物をその場から持ち出すことで違反になる」と
捉える者が多いように思える。
一体何故なのか。
私には不思議で仕方が無いのだ。

もちろん、文化財保護法の第196条だけを見れば、
「善意で怪我をしている動物をその場から持ち出すことで違反になる」と
捉える事も出来なくは無いのだが、
条文だけで捉えるなら、基本的なことを忘れてはいけない。
それは日本国憲法で国民が認められた自由である。



日本国憲法第3章、第13条及び第19条にに次のような一文がある。

 第13条
  すべて国民は、個人として尊重される。
  生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
  公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 第19条
  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第13条では人は個人として尊重されるべきであり、
道徳やマナー(公共の福祉)に反しない限り、その行動を認めるもの。
第19条では個人の考え方の自由を認め、
その良心に従って行動を起こすことの自由を認めるもの。


怪我をして弱っている動物が居て、
その動物を可哀想と思って助ける行為は
例えばその動物が人を襲うなどして危険である、などと言うことが無い限り、
通常は公共の福祉に反する行為では無く、
良心を持つことの自由は法で認められている。
それも日本国憲法において早い段階で明示されている。
国民の権利と義務で守られるべき行為であると言える。

つまり本来は
文化財保護法等を見るとき、
この日本国憲法を踏まえた上で見る必要があるのだ。

そして、日本国憲法を踏まえた上で見たとき、
善意を持って怪我をして弱っている特別天然記念物に指定された動物を
保護センタなどに運ぶ行為は文化財保護法から罰せられる対象では無いことがわかる。






小難しいことを抜きにして言えば、
道を歩いていたら、近くの家の中で人が倒れたとしよう。
その女性を助ける為にまったくの他人が隣の家に侵入したとき、
それを住居侵入罪とするか、しないか、と考えれば明白だ。

(もちろん、住居侵入罪を定める刑法には
 「正当な理由が無い場合」と前置きを設けているが、
 これは人対人から起こり得る問題を排除する為の一文である)





従って、ここで言う特別天然記念物に指定されている生き物が怪我などをしていて、
それを助けようとして触れること、または病院などに移動させることは
基本的に文化財保護法違反にはならないと言える。

しかし、それには絶対に証明しなければならない条件がある。
先に述べたように、天然記念物の動物の部門の担当者が
善意で助けようとしたことが証明できるのであれば、罪に問われることは無い。
善意で助けようとした者を罪に問うこと自体があってはならない
」と言う明言している。

善意で助けようとしたことが証明できなければならないのだ。
山の中の道で人が特別天然記念物に指定された動物を車の中に強引に入れていた。
これを「持ち出そうとしている」のか「助けようとしている」のか、証明できるだろうか?

そう、これが証明できなければ、いくら善意で行動していたとしても、
文化財保護法違反に問われる可能性も十分にある。
だから一昔前は「触れてはいけない」と言われたのだ。

だが、今はそれも簡単な事だろう。
山中であろうと、車で行動できる範囲は比較的携帯電話などが繋がる環境にあるし、
その近くの民家や通りかかった者に話をして証言してもらうことも出来る。
急を要する例外は無いとは言わないが余程の事がない限り、
通常は何らかの状態で然るべき場所に連絡することが出来る環境であろう。

となれば、怪我をした特別天然記念物に指定された動物を見つけたのなら、
然るべき場所に電話をしてどうすれば良いか判断を仰ぐことが一番良い。
善意としてそれを助けようとする事を証明することが出来ることに繋がり、
更に、その生き物の担当者であれば少なくとも
その生き物に対する最低限の知識を持ち合わせているだろうから、
下手に素人が触るよりも良い判断を出してくれることにも繋がる。
例えば一般的に特別天然記念物に指定される動物が怪我をしていた場合、
軽症の場合は治療せずにそのまま山に帰したり
現地で治療して、すぐに解放する場合も少なくない。
これは出来る限り野生の状態で保護活動を行なうと言う考え方に基づく。
人が出来る限り介入しない、または野生に戻しやすいようにする為だ。
そう言った判断も、やはり素人には難しいだろう。

ちなみにだが、然るべき場所と言うのは、守る個体によって変わる。
特別天然記念物に指定されている動物の場合、
それが生息している自治体に任せられていることが多い。
その為、特別天然記念物に指定されている動物ごとに連絡先が違うのである。
通常、それが生息している自治体の
教育文化課(もしくはそれに類する課)に連絡をすれば良い。

また、素人が天然記念物のデータを全て知っていると言う方は稀であろう。
その為、それが特別天然記念物に指定された動物なのか、
それとも指定されていない野生の動物なのかの識別が出来ない事も多いだろうが、
これが特別天然記念物なのか、野生の動物なのかでも同じ自治体で部署が変わる。

解らなければ、その動物が居た市の市役所に連絡すれば良いだろう。
そうすれば担当者に繋いでくれるはずだ。

















さて。

では、何故こう言った
特別天然記念物に指定されている生き物が怪我などをしていて、
それを助けようとして触れること、または病院などに移動させることは
基本的に文化財保護法違反になる、という間違った話が出てきたのか?





実はこの話は風刺話であると言える。
風刺漫画、風刺絵などという言葉は聞いたことがあるだろう。
標的となる相手の批判を遠まわしに指す、
または皮肉を含んだ冗談とする、そう言った意味を示す風刺である。

ここで言われているのは
特別天然記念物に指定されている動物を守るべき国(または地方公共団体)が
特別天然記念物に指定されている動物を守るための体制が
出来ていない事に対する風刺だ。

恐らく、国は国なりに専門家を雇い、
財源のある中で調査を行い、それを実行しているのだろうが、
それを「仕事」としている為に情熱が見えないのだ。

少なくとも、
特別天然記念物に指定されている動物を守りたいと願う一般市民に比べれば
その情熱は多くの意味で劣っていると私も思っている。

ならば、特別天然記念物に指定されている動物を守りたいと思う
一般市民に任せれば良いのだが、国側はそれらを良く思わない節がある。
細かいことはここでは書かないが、国側の主張する問題がいろいろあるようだ。
(特別天然記念物を純粋に守りたいと思う一般市民には理解できない内容もある)
その為、市民が行動を開始しようとすると、
国側がそれを抑制する働きを見せることも少なくないと言う。

そういった国側の行為から、このような話が生まれるのである。

特別天然記念物に指定されている動物を自分たちの手で守りたい。
これは国側を押しのけてと言う意味ではなく、
純粋に動物を守りたい気持ちであるのだが、
しかし、国側はそれを快く思わず、場合によっては反対する。

まさに、怪我をした特別天然記念物を助けようとすると、
法律違反になると言う図式が完成するのである。

















さて、少し話しを変えて。

国の天然記念物にセマルハコガメと言うカメが居る。
沖縄に居る陸生のカメなのだが、
ロードキルによる被害が非常に多いことでも知られる。

民家の近くにまで足を運ぶ事もしばしばで、
道路を横断中に車にひかれて死んでしまうのである。

そこで、石垣市教育委員会文化課では、道路でセマルハコガメを見かけたときは
道路から少し離れた場所へ移動させる事を呼びかけている。
これはセマルハコガメが道路を横断する事に対する危険性の応急措置とし、
国が保護のために天然記念物に触れることを容認しているとわかる。

普通に考えれば、これが妥当な決断であろう。
国の保護機関でロードキルの見回りをしようと思っても人件費が掛かりすぎる。
ならば、最も接点が近い住人に呼びかけることで、
そのコストも軽減でき、接点が近い分、より多くのセマルハコガメを守る事に繋がる。
守る事で住人の愛着が沸けば、車の運転などにも注意が行き、
更に過失の事故なども防ぐ事が出来る。
一石二鳥となるわけだ。

だからといって国民にそれを任せきりにしてもいけない。
セマルハコガメは比較的人里の近いところでの目撃も多く、固体も小さい。
そう言った面から密猟などのケースも多い。

国は密猟者などを監視しなければならない。
となると、必然的に善意の住人から情報を得る必用がある。
つまり、国側と住民の距離が近くなければ
固体を守る事なんて出来やしない事が解かるだろう?

このセマルハコガメのケースに置いては、
対象が小型で管理が容易であると言った事もあるのだろうが、
国と住人の協力で天然記念物を守ろうと言う行動に繋がる良い事例であると言える。

















特別天然記念物が怪我をしているのを見つけても触っちゃダメだ。
触ると法律違反として罰せられる。
なんて言葉で国を批判するよりも、
守りたい個体を守るために国と協力する方が
はるかに建設的ではないか? と思えて仕方ないのだ。





注)
 ここでは飽く迄、怪我をした特別天然記念物を保護する場合や、
 道路に死体が転がっていたら、その死体の所為で2次的な事故が起こり得る場合に
 それらに安全を優先する上で、それらに触れる、移動させると言う行為に対して、
 文化財保護法を違反する事にはならないと言う事を示しています。

 多くの動物の専門家が特別天然記念物に触れてはいけないと言うのも、
 元気な固体に触れることは宜しくないという意味合いであるので、
 例えば興味本位で特別天然記念物に触れることはあまり良い行動とは居えません。
by mikenekohanten | 2007-09-07 14:31 | 雑談
にゃくがー はゆです♪

これは はゆのトンデモ地球論、番外編です。
ですが、後日トンデモ地球論本編に加えられる可能性があります。

 →【はゆのトンデモ地球論】
















今回のはゆのトンデモ地球論・番外編では、
少し趣向を変えて「トトロの裏話」を見ていきたいと思う。

その前に。
今回の話には映画・となりのトトロのストーリを準えて話を進めていく事や
本来の映画のメッセージを歪曲した形で伝える内容を含む。
つまり、俗に言うネタバレと呼ばれるものになる。
まだ映画本編を見ていないという方は、是非本編を見るまでは
今回のトンデモ地球論は読まないで頂きたい。

















巷で囁かれている、トトロの裏話と呼ばれる都市伝説があると言う。

















物語の後半で、メイが行方不明になるシーンがある。
物語の大きな山場である訳だが、このとき、メイは既に死んでいるという話だ。


サツキとメイの母親は難しい病。
その為、都会から隔離施設に移るため草壁一家が田舎に引っ越してきた。

そんな中で、サツキとメイはトトロに出会う。
トトロは死神のような存在。死の近い人間にだけ見える。
ネコバスはあの世とこの世を結ぶ乗り物。

メイは母親にトウモロコシを届けようとして一人で家を出て、沼に落ちて死んだ。
その後、池からメイのサンダルが見つかる。
サツキはそれを見てメイのものだと解かったが、
皆に心配をかけないように「メイのじゃない」とウソを言う。

そしてサツキはトトロに言う。
「お願い、メイを探して」
メイは既に死んでいる。
即ちメイのところとはあの世を指す。
ねこバスの表示がくるくると回る。
"塚森"、"長沢"、"三ツ塚"、"墓道"、"大杜"、"牛沼"、"めい"と変わる。
"墓道"を通って"めい(冥)"に通じる。

そして、2人は6体の地蔵の前で出会う。
これは六道の辻を表しているのではないかとも言われる。
六道の辻とは、平たく言うとあの世とこの世の境目の事だ。

2人が出会った後、メイが母親にトウモロコシを届けたいと知り、
ねこバスは七国山病院に連れて行ってくれるが
このときの表示だが、七国山病院の"院"の文字が逆さになっている。
体を治す為に通う病院がひっくり返っていると言うのは不吉の象徴とも言える。

そしてその後、最期に母親にトウモロコシを届けて消える。
母親が「サツキとメイが笑ったように見えた」と言ったのは
サツキとメイが霊となって逢いに来ていた・・・と。

















実は、この映画をリアルタイムで映画館で見たのだが、
このとき、私も一緒に見た友達との間でいくつか話をした記憶が残っている。

例えば、「あの沼で見つかったサンダル、メイのでないなら誰のもの?」とか
「あんなに母親に会いたがっていたメイが母親に会えたのにも関わらず、
 話などをする事無くトウモロコシだけを置いて帰ってきたのか?」などだ。

もちろん、当時はただ疑問に思っただけで、
先に述べた都市伝説のような考え方を持っていた訳では無いが。

















実はネタを明かすと、このトトロの裏話は作られたものだ。
・・・と言うのも、スタジオジブリが公式に否定しているからである。
もちろん、公式に否定しているからと言ってそれが真実とは限らないが、
少なくともオフシャルが否定している以上、それ以上の発展は無い。

こう言った国民的アニメには概ねこういった都市伝説が生まれ易い。
一時期噂で流れた、ドラえもんの最終回などもそれに近い感覚だろうか。

都市伝説って言うのは面白い。
最初は誰かが言い始めた他愛も無い噂だが
それが口伝で広がる時に、"穴"を"保管"していくのだ。
穴が保管されるたびに、その噂は完璧なものになっていく。

どうだろうか?

上のトトロの裏話だけを見ると、どう見たって真実のように感じてしまう。
けれども、実際にトトロの映画を見て感じた感情は
物語上暗い表現も多いが、最期のハッピーエンドを見て、
あんな裏話を考える隙は無かったに違いないのだ。

















さて、実は上の都市伝説を知って、妙にトトロが見たくなってしまった私は
思わずビデオデッキとトトロのビデオをダンボールから取り出して見てしまった。

こうやって改めてみると、昔に見た感じとはまた違った見え方が出来ると思う。
そして、改めてこの"となりのトトロ"という映画は実に良く出来ていると実感した。

ココから先は私がこのとなりのトトロに見る解釈を語ることにしよう。






となりのトトロの映画は
草壁一家が都会から田舎に引っ越してくる事により始まる。

サツキとメイは都会の子=現代の子の象徴だ。
物語の前半はただ只管に「田舎の風景の美しさ」を描き続け、
美しい緑の山々に棚田、小川のせせらぎに泳ぐ小魚やオタマジャクシが見られるが、
サツキとメイはこれを一々感動するのである。

そして、サツキとメイが暮らすことになった家は随分と面白い形状をしている。
純和風の平屋の作りに、洋風の屋根裏付き洋間がある。
サツキとメイを現代の都会の子の象徴とするなら、
これは現代と昔の融合と見ることが出来る。

この考えで行くと、サツキとメイの名前の由来も意図的なモノを感じる。
サツキは5月を陰暦で表す皐月と言え、実に日本的である名前に対し、
メイは5月を英語で表すMayであると解かり、現代的であると言える。

また、母親が病院に入院していると言う事も興味深い。
物語の前半では父親とサツキで
家の仕事を分担して行なっているシーンが多々見られる。
都会の子=現代の子と考えるなら
片親が居ない環境を象徴しているように見えるのである。



さて、現代の都会の子の象徴として描かれているサツキとメイであるが
実はこの2人には劇中で大きな違いを見ることが出来る。

引越しから1ヶ月ほどたったと思われる時期、
サツキは学校に通っているのだが、友達が居る事が描かれている。
劇中では学校で勉強に励むシーンで親しい友達と話す姿や
友達の家に遊びに行く姿も見られる。

しかし、メイは逆に、劇中で同年代の友達が出てくる事は無い。
また、劇中に描かれるのは一人遊びなのだ。
現代の都会の子の象徴として描かれている2人にもこのような違いがある。





そんな一人遊びをしているメイであるが
トトロと初めて出会ったのも一人で遊んでいるときである。
半透明な小トトロを見つけて、中トトロも発見し、追い掛け回し、
秘密の抜け道を抜け、大トトロと出会うのだ。

このとき劇中で1度目のメイの行方不明が起きる。
事件としては対した事では無く、すぐに発見されるのだが、
これは子供が1人で遊ぶ危険さを表していると言える。
劇中で何度か表現されている事だが、
小さな子供が何かに興味を持つとそれしか見えなくなる。
小トトロを発見したメイは、一心不乱に小トトロを見つめる。
メイの周りを飛ぶキチョウにすら気を捕られる事が無いくらいの集中力だ。
この時代の頃の4歳児は通常母親と一緒に居る。
その母親が居ない草壁家ではその危険性は非常に高い。
私にはここでもまた、母親が居ないと言うキーワードが象徴的に感じた。

2度目の迷子は物語の山場になる部分だ。
メイが母親の為に一人で七国山病院に向かう。
大人の足で3時間かかる道のりだ。
映画の前半では父親がメイとサツキを自転車に乗せて向かうが、
途中で休憩の時間を挟むなど、やはり相当の時間がかかるものと思われる。
そんな中を4歳の子供が1人で歩いていくのだ。
迷子になるのも頷けるだろう。
以前にトンデモ地球論・番外編3で語った事だが、
昔は、子供たちが遊んでいるところの近場には大人たちが働きそれを見ている。
これにより子供たちの安全が守られていた。
だが、メイはその"目"を掻い潜って迷子になった。
これは物語上の都合もあるのかもしれないが、
やはり、子供が1人で行動を起こす事の危険性を表しているようにしか見えない。





さて、迷子になったメイだが、
上の都市伝説の中でも語られたとおり6体のお地蔵様の前で座っている。

劇中には何度かそう言う日本的なものが見られる。
家の隣の塚森には鳥居に社があり、
夜の雨の中、父親を待つバス停にはお稲荷様がある。
また、お地蔵様は別の場面でも描かれている。

夜の雨の中、父親を待つバス停にあるお稲荷様の表現も美しい。
神聖なもので、土地を守るハズのお稲荷様だが、
夜の雨もあってか、メイには恐怖に映ったようだ。

サツキがメイをつれて学校から家に帰る途中、雨が降り始める。
仕方なく、お地蔵様の社で雨宿りする。
サツキはお地蔵様に「雨宿りをさせてください」と拝む。
私には、このシーンがメイが迷子になったときに
お地蔵様のところで座っていた姿に重なる。
メイは、ちゃんとサツキの行動を見ていたのではないか? と思えるのだ。
お地蔵様には道祖神を含むものも多く、安全な旅の道中を祈るものともいえる。
道に迷子になったメイがお地蔵様の前で動かず誰かが通るのを待っていたのは
私には凄く印象的に見えたのだ。

劇中に、不思議な生き物は多く登場するが、「神様」は一度も登場しない。
それどころか、蔑ろにされていると見える節がある。
トトロの住む塚森の社は荒れ放題だし、
メイが最初に迷子になったときにトトロと出合ったあと、
メイとサツキと父親は塚森の主に挨拶をしにいくのだが、
この時3人が拝んだのは社にではなくて塚森の巨大なクスノキだった。
メイが迷子のときに居たお地蔵様などでも、
神様が助けたのではなくて不思議な生き物によって助けられた。

私にはこの神様の扱いが、
神=トトロやねこバスのように見えるのだ。
"神は全知全能では無く、少し不思議な生き物である"
そんなキーワードが込められているようにも見えた。





さて、そんな不思議な生き物のトトロであるが、
このトトロとは一体何者であろうか。

一見すると、妖怪や物の怪の類に見えるが、
劇中で妖怪として語られるのはススワタリのみである。
隣のおばあちゃんは「そんな恐ろしいものでは無い」と言うが
誰も居なくなった家に住み着いてアチコチを煤で真っ黒にしてしまう、
手入れをしていなければ汚れてしまうと言う戒めを持った存在である事が解かる。
これはトンデモ地球論・番外編3で語った事だが、
一般的な妖怪の定義に当てはまるものである。



しかし、トトロやねこバスはそう言ったものでは無い。
むしろもっと自然的な力の表現が多いように思われる。
例えばトトロは植えた木の実を大木にする力を持ち、
コマに乗って風になる事も出来る。
ねこバスも同様に普通の人には見ることが出来ず、
木々がねこバスを避け、ねこバスが駆け抜けた風がつむじ風を生む。

物語中に一度サツキがトロルに当てるが
この表現からトトロやねこバスはその地球にある自然的な力、
精霊を表す姿のように見える。

その様に見ると、
実はオープニングの「となりのトトロ」のタイトルにはイロイロ含まれている。
小トトロが画面の端から端に向かって歩いていく。
小トトロの肩には小さな子袋。
小トトロが歩いていくと、ポツポツと種が落ちていく。
やがてその種が若葉になったかと思うと、
それは実はトトロの耳で小トトロが沢山生まれる。
そしてその小トトロがトトロと言う文字を象る。
劇中にも何度も"ドングリ"が登場し、芽生えのシーンも見られる。

つまり、自然的な力にトトロのような精霊を重ね合わせている事が解かる。





その様なトトロであるが、劇中通してトトロにメイとサツキは4度出会う。
1つめはメイが秘密の抜け道を抜けて初めてトトロと出会う。
2つめはサツキとメイが父親の迎えでバス停で待っているとき。
3つめはトトロのくれた木の実を植えた畑。
4つめはメイが迷子になってサツキがトトロにお願いするとき。

これら、トトロの逢う条件には"眠り"と言うキーワードが見られる。

1つめのメイが秘密の抜け道を抜けてトトロと出合った時は
メイはトトロのお腹の上で寝てしまう。
起きると、秘密の抜け道の中に居て、トトロはどこにも居ない。
一見するとメイが見た夢であるように見える。
こう見ると、半透明で見つかってしまった小トトロは
現実と夢の微睡み狭間のように見えて仕方ない。

2つめのサツキとメイが父親の迎えでバス停で待っていた時は
メイが疲れて眠ってしまう。
サツキは眠った訳では無いが、
サツキとメイが共に五月を表す子供である事を考えると、
サツキが起きていて、メイが眠っている・・・
即ちここでも、現実と夢の微睡みの狭間を表現したように感じる。

3つめのトトロのくれた木の実を植えた畑での出会いはもっと解かり易い。
サツキもメイも一度眠ったが、真夜中に庭の異変に気づく。
この時、サツキとメイの植えた木の実は大木になるが
朝起きるとそれは無くなり夢だと解かる。
けれど、畑には芽が出ているのだ。
この時、サツキとメイが印象的なセリフを言う。
「夢だけど、夢じゃなかった」
ここでもまた、現実と夢の微睡みの狭間の表現が垣間見れる。

4つ目のトトロとの出会い。
サツキがトトロに逢いたいと思って秘密の抜け道を抜けるのだが、
実はこの時だけは「夢」の表現が一切出てこない。
だが、奇妙な表現としてサツキとメイが母親の元にトウモロコシを届けた時に、
両親はその姿がが見えなかった(見えた気がした)。



実は先に述べられた都市伝説にあったメイが死亡したのではないか? と言う裏話。
あれは強ちハズレではないのでは無いかとも言える。

これまで現実と夢の微睡みの狭間の表現だったのが、
4回目に逢ったときのみ現実であった。
しかし、両親にはその姿が見えなかった事を考えると、
精神的表現であったと言えるのだ。

しかし、捉えるなら都市伝説にある「メイ死亡説」ではない。

6体の地蔵の前で座り込んだメイ。
これが六道の辻を表している。
六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つ世界で
辻とはその6つの世界を繋ぐ交差点。
人の魂はその道を通って輪廻転生を繰り返す。
しかし、メイはその道を通らずにその道の前で待ち続けていた。
姉のサツキが迎えに来てくれるのを。

そして、サツキはあの世とこの世の狭間に立つメイを見つけ現世に連れて帰る。
その途中に寄り道で母親に逢いに行ったのだ。





エンディングではねこバスと分かれた後、
メイは隣のおばあちゃんやカンタと再会する。
これは穿ってみる事をしなければメイが無事帰ってきた事が描かれている。

つまり、子供が一人で遊ぶ事の危険性を訴え、
今回は、不思議な力を持つ"神"的存在に助けられた。
そしてハッピーエンドで終わるのだ。





エンドといえば、エンドロール内でもいろいろと描かれている。
劇中でメイは1人で遊ぶ姿しか見られなかったのに対し、
エンドロールでは多くの友達と遊ぶ姿が映し出される。
また、自分より年下の友達も出来、お姉ちゃんとして子守もしている。
物語の導入で現代の都会の子として表現されていたメイの変化である。





最期に。
映画全編を見終えて、この映画が翌々凄いと思えたのはその細かな表現力だ。
草壁一家が引っ越してきたのは5月である。
長閑な田んぼの風景には水が張られ、馬が田の中に居る事が見て取れ、
田植えの前の田起こしをしている事が解かるだろう。
田んぼの畦にはキハナショウブが見られ、
草壁一家が引っ越した家の庭にある湿地にはノハナショウブが見られる。

一人遊びするメイが摘んできた花はタンポポ。
田植えが終わったあとの庭の湿地の水溜りにはオタマジャクシで
庭に咲く花はオオバコやオニノゲシのようなものに、
ヒメジョオンやアザミのような花も確認できる。
オオシオカラと思われるトンボが飛ぶ。
更に秘密の抜け道の前にはツユクサが見られる。
太陽とカタツムリ。
梅雨の雨とアジサイの花。
雨の中を歩くヒキガエル。
杉の葉から滴り落ちる水の雫

乳山羊の長方形の黒目やスキッ歯。



生き物だけじゃない。
その生活観も。

まっくろくろすけが屋根裏に逃げ込んだときの映像では
ちゃんと上棟が供えられていた。

田植え休みに母親のお見舞いに行く。
もちろん、カンタや隣のおばあちゃんは田植えを行なっている。
カンタは朝、ニワトリに餌をやり、卵を収穫する。
7月になると、蚊帳を張る姿。

細かな再現が里山に見えるのだ。
まさに、この映画が里山をテーマにした一つのテーマパークなのである。
by mikenekohanten | 2007-08-06 19:57 | 雑談
にゃぷらいず はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第30回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第30回目に行きましょう♪
今回のテーマは「ルールとは? その7」です。

















さて、今回は臨機応変case by caseの意味から、
その言葉の使い方の説明をしていこう。





まずは臨機応変である。
一般的には、「その場に応じた適切な対応」と言う意味で使われるだろう。
実際に辞書などには次のようにある。
 その時々の場面や状況の変化に応じて、適切な処置を施すこと

もちろん、この意味は間違いでは無い。
しかし、この意味だけでは
本来の臨機応変から間違った使い方をしてしまう恐れがある。
その間違った使い方をしてはいけないのだ。
そのために、臨機応変の語源から説明していこう。






この臨機応変の語源は次のことからきている。

 南北朝時代の梁王朝に蕭明と言う武将が居た。
 この男の軍は、ある時敵軍を優位に取り囲む事に成功した。
 そのとき、部下の多くがどう攻め入ればよいか、色々と知恵を出し合ったのだが、
 蕭明は「私は己で機に挑みその変化に応じて相手を制する」として
 部下たちの申し出を受け付けなかったと言う。

これは南史に出てくる一齣だ。
このときの蕭明の言葉が臨機応変の由来になる。
機に臨み、変化に応じると言う意味だ。

だが、この駒だけ見れば、何のことはない、
今で言うところの"ワンマン社長"と変わらないだろう?
「私が決めるんだ、お前たちは言うとおりに動け」と言う事だ。



もちろんこの話にはもう少し裏がある。



当時、梁王朝は内戦なども多くあり、混乱の時代だった中で、
蕭明は梁王に非常に信頼されていた部下の一人だった。
そのため、多くの決定権を任されていたという。
つまり、蕭明は梁王からその責任を任されていた為、
己で決定する権限を持っていたわけだ。

それが本来の臨機応変の意味である。





つまり、本来の臨機応変の意味は次のようになる。
 与えられた権限の中で任された仕事を自分の立場から
 その時々の場面や状況の変化に応じて、適切な処置を施すこと





こう考えると臨機応変と言う言葉はそう簡単には使えない。

例えば上司が部下に仕事を任せるとき、
この仕事、臨機応変に頼むよ」と言ったとする。
これは即ち、
この仕事の権限は全て君に任せる。君の自由にやりなさい」と言う事だ。

仕事を任された部下は自由に行なう許可を得たわけだから、
その状況に応じて機に臨み、変化に応じればよい。
それが良いように変化すれば、その部下の利益であり、上司の利益になる。
それが悪いように変化すれば、その部下の責任であり、
その部下に権限を与えた上司の責任にもなる。

となると上司は簡単には臨機応変なんて言葉は使えないだろう?
本当に信頼できる部下にしか、
本当の意味での臨機応変な仕事を託す事が出来ないハズだ。

よく企業などでは誰彼かまわずに
「そこは臨機応変にやっちゃって」なんて軽く言う者も居る訳だが、
その人は余程全ての人を信頼しているのか、
はたまた、臨機応変の本来の意味を知らないだけか。
そしてそう言うふうに誰彼構わずに臨機応変と言う言葉を使う者ほど、
"臨機応変に対応して失敗した部下"の責任に対して、
「君が勝手にやった事だから君が責任を持て」と言って責任逃れするものだ。





また、銀行などの受付で稀に目にする光景だが、
受付相手にお客が「そんな事も臨機応変に対応できないのか」を怒っている事がある。
こういった光景を見ても「不思議な光景だな」と私はいつも思ってしまうのだ。

先ほども言ったとおり、
臨機応変とは
与えられた権限の中で適切な処理を行なう」と言う意味だ。
ここでは、受付は受付の仕事を行なっている。
その受付が、会社や上司からどの程度まで権限を与えられているのかわからないが、
少なくとも受付としての仕事は行なっているはずである。
それをお客が"受付の権限の枠を超える事"を切り出し対応出来ないからといって、
お客が受付に対し「臨機応変に対応しろ」と指示する権限は無い。
客の目から見て「臨機応変に対応できていない」と思うのは勝手だが、
それを受付に向かって「臨機応変に対応しろ」というのは間違いなのだ。
逆に風体の悪い男が「責任者を出せ」と声を荒げる事も稀に見られるが、
むしろ道理としてはこちらの方が正しいのである。

同じお客の立場から言わせてもらえれば、
受付の対応が悪いのであれば、受付の対応の悪い部分を指摘すればいい。
しかし、受付の権限の域を超える内容であれば
受付では無く責任者に話を通すべきだ。
それでも気に食わなければ今後その企業を利用しなければ良い。
商売でも何にでも言えることだが、世界は需要と供給があって成り立つ訳だからだ。



このように考えると
臨機応変と言う言葉の意味自体を取り違えて使っている事が良く解かる。
そして、その使われ方は
身勝手な自分の行動を正当化するためだけに使われているのだ。


 特別天然記念物が怪我をしているのを発見し、
 それを善意で保護センターに運んだ場合、文化財保護法違反になる。
 また、交通事故などに合い道路の中央などで死滅している特別天然記念物を
 善意で道路脇などに移動した場合は森林法違反になる。

・・・と決まっているにも関わらず、自分の身勝手な考え
これは臨機応変に対応したんだと言う訳だ。

 こんなことが起こるから、新しくフィールドに出る者にはこういった内容は教えない。

などと言う訳だ。

















続いてはcase by caseの意味だ。

caseとは日本では一般的に"事例"と言う意味で使われる。
つまり、case by caseとは事例毎に考えようと言う意味だ。

語源は簡単だ。
caseとは別の意味に「入れ物」と言う意味がある。
大きな箱に小さなモノを入れれば、ぐらぐらして安定が悪い。
小さな箱に大きなモノを入れようとしても入らない。

つまり、入れ物に応じて入れるものを決めましょう、と言うのが
case by caseの本来の意味である事が解かるはずだ。



恐らく臨機応変と違い、
case by caseの意味は多くの人が正しい意味を認識しているはずである。
しかし、case by caseが正しい使われ方をする事は少ない。
一体どういうことであるのか?



それは"事例"が既に決まっているにも関わらず
身勝手な考え方で無視する事である。

 特別天然記念物が怪我をしているのを発見し、
 それを善意で保護センターに運んだ場合、文化財保護法違反になる。
 また、交通事故などに合い道路の中央などで死滅している特別天然記念物を
 善意で道路脇などに移動した場合は森林法違反になる。

と言うふうに事例として定められているのだ。

通常case by caseは「事例毎に判断する」である事は先に説明している。
つまり、本当に特別天然記念物が怪我をしていて
その生き物を保護センターに運んだら文化財保護法違反になるのであれば、
既に事例は決定してると言う事だ。
「事例」が決定しているにも関わらずそれを無視する事に問題がある。
case by caseで対応すると言うことは
事例通りに動く意味を理解しなければならない。


自分の身勝手な考え方だけで法律を破り、
その向上を臨機応変だのcase by caseなど
自分の都合の良い解釈の言葉で利用しているのである。

















こう言うルールの話をするときは
"スポーツのルール"に置き換えると解かり易いだろう。

例えば野球に置き換えるなら、
バッターボックスに立った選手が、
ボールを打った後に三塁ベースに向かって走り出す。
野球では一塁ベースに走るのがルールだ。

だが、その三塁に走った選手は言う訳だ。

 私は反時計回りに走るよりも、時計回りに走った方が走りやすい。
 これは臨機応変であり、case by caseである。





仮にこれがプロ野球だとしよう。
果たしてこの主張が認められるだろうか?

もちろん、選手の意向が多く上がれば
ルールの改変が行なわれ、認められる可能性もあるかも知れないが、
その時、三塁ベースに走った選手は間違いなく「アウト」にされるだろう。
プロ野球ではルールがあり罰則があるわけだ。

ルールが改変されるのであれば、
日本に置いては日本野球機構がルールの改変が適切化を判断し、
それに準じてルールが新しく改変される。
そう言った順を追って、プロ野球に関わる全域の者に
ルールを周知して初めてルールとなる。

しかし、ルールが改変されていないのにもかかわらず、
三塁ベースに走った選手は身勝手に他ならない。
そのたった一人の選手の所為で、多くの選手が、その試合を見に来ている観客が、
多くのものが迷惑を被るのだ。





では、これが草野球であれば?
草野球であればその罰則が一段回緩くなる事は確かだ。
もちろん、本人の身勝手には他ならないだろうが。
また草野球のレベルであれば、そう言ったルールの改変も容易に行なわれる。
ローカルルール(その地域だけの特別なルール)と言う位置づけも可能だ。
それはどうしてか?

臨機応変の本来の意味の説明をした時に語った事だが、
与えられた権限の中で適切な処理を行なう」と言う事であると言える。

そして前の【トンデモ地球論】28で語った事にも通じる。

人間の世界におけるルールの話だ。

 レベルA:拘束力なし。周知している訳ではないが浸透しているルール。
 レベルB:拘束力なし。だが代表となる者が、周りに守るように周知しているルール。
 レベルC:拘束力として罰則を設け、守るように周知しているルール。


これに上の野球の話を当てはめるなら、
プロ野球はレベルCに位置し、草野球はレベルC~Aの間に位置する事が解かる。


問題はそのルールを何故守らないといけないのか。
どういった意味合いで守る必要があるのか。
法とはなんなのか?

人が"集団"で生きるための知恵が"ルール"にはあると言う事だ。

















こう言う話をすると、
大概、反対意見を持っている者からは
じゃぁ法律が間違っている場合はどうするのだ」なんて馬鹿げた事を言われる。



今の日本は民主主義国家であると言えるだろう?
つまり法律って言う者は本来、民主主義に則って形成されなければならない。
つまりそのものが共有の財産であると言う事だ。

それに逆らった法律であれば、訴えればよいだけのことだ。
その法律が本当に間違っているのであれば、訴え変えていけば良い。
そのために何をしなければならないかは、大人なら解かるだろう?

それでも国は良くならないじゃないか、と訴えるなら
日本を離れて理想の国に国籍を移してそこに住めば良い。

まぁ、これは極論だが、
じゃぁ法律が間違っている場合はどうするのだ」なんて
馬鹿げた発言自体が極論な訳だ。

















日本語に限らずだが、言語と言うものは時代との移り変わりによって変化する。
つまり、今現在多くの人によって使われる言葉も進化してきた結果である。
そう考えると、本来の意味とは違う間違った使われ方も、
日本語という文化圏に置いての進化だと言うことが出来る。

その考え方自体に異論はない。
むしろ私は、そう言った考え方を強く持っている方だ。

だが、自分の身勝手な行動を正当化するために、
都合の良い言葉を適当に使っしまう風潮が許せないだけなのだ。
身勝手な行動を取っても、case by caseだの、臨機応変だの言えば
一つの区切りとして論が完結してしまう為だ。

「この原子力発電所は安全です」と言い放ち、
いざ、地震などで異常が見られボロが出てくると
「原子炉のある建物は火災にならないように作られていますが、
周辺の建物は一般と同じ作りで火災や地震にも弱いのです」
なんて事を他人事のように言っている人間とまったく同じ事をやって居る訳だ。



それこそ、「何故それが悪いのか」「何故その行動を取らなければいけないのか」
そう言った内容を教える立場にある者ほど、
決してそう言った行動を取ってはいけないのである。

















さて、では次回は特別天然記念物に関する法律について語ろうと思う。

 特別天然記念物が怪我をしているのを発見し、
 それを善意で保護センターに運んだ場合、文化財保護法違反になる。
 また、交通事故などに合い道路の中央などで死滅している特別天然記念物を
 善意で道路脇などに移動した場合は森林法違反になる。

・・・と言う話をもっともらしく言っている人が居る訳だが、
この行為が本当に違法なのか、そして罰せられるのか。
考えていきたいと思う。
by mikenekohanten | 2007-07-19 17:46 | 雑談
にゃろみあ はゆです♪

これは はゆのトンデモ地球論、番外編です。
ですが、後日トンデモ地球論本編に加えられる可能性があります。

 →【はゆのトンデモ地球論】
















実は前々から地球論で書きたかったネタがある。
それは「妖怪」と「自然」と「人間」の関係だ。
私が尊敬する先生の一人の自論でもあり、これがとても興味深かったのだが、
今回は、その興味深い話を自分の中で消化して、自論を交えて話をしようと思う。



今回の地球論。
タイトルをつけるなら「妖怪、禁止看板現る」だ。
さて、このタイトルからどんな記事を想像する事が出来るだろうか?

















近年、立入禁止区域と言うものが、数多く増えたように思う。

私が讃岐の出身であるが、讃岐は昔、ため池の多さを誇っていた。
そのため至る所にため池を見ることが出来た。
男の子は釣りで遊んだりしていたし、浅いところでは平気で泳いだ。
ため池は川と違い、水の流れがない場所だ。
そのためいつも濁っていたし、随分汚かった。
大人たちからは「田んぼに入れる大切な水」だからと怒られたりもしたが、
子供の頃って言うのはそう言うものには大抵平気で、
怒られようが、汚かろうが、面白いものには貪欲だ。

だが、そんなため池王国だった讃岐でも、
近年では、大きな池では「水泳禁止」「釣り禁止」何でもかんでも「立入禁止」
中には、この看板が許せないと言う者も居る。
なぜなら、コイツがある所為で、その池で遊ぶ事が出来ないからだ。

だが、街中でこうやって
「危ない」から「禁止」と言う看板が増えたのには、実は訳がある。
それは、「妖怪が子供たちの友達になってしまった」事だと考えている。
















今から数百年前の話をしよう。
今で言う"里山"の環境に生活していた昔の子供たちは平気で川遊びをしていた。
木々にも登り、木の実を採るし、山の中も駆け巡っていた。

しかし、その頃は今ほどそう言った行為が危険ではなかった。
それは、大人たちの目があると言える。

その昔は今のように交通手段が発達していなかった。
子供たちは歩いてでしか移動できないから、いける場所なんて多寡が知れている。
昔は親が知らないような場所への遠出が、子供の力だけでは出来なかったのだ。

更に当時の暮らしでは、子供たちが遊ぶ場所で必ず大人たちが見ていた。
これも当時の生活空間が大きく影響している。
大人たちの仕事空間と生活空間がそれほど離れた場所には無かった。
そして、村の人々が共に互いの子供たちを見守っていた時代でもあった。
子供たちが海に遊びに行けば、
海の漁師やそういった仕事に生業にしている大人が働きながら子供を見ている。
子供たちが山に遊びに行けば、
やはり、山で生活をしている猟師や樵を生業にしている大人たちが居て、
田んぼや畑、川、子供たちが行く場所の近くには大人たちが居たのだ。

つまり、その時代の大人たちは
自分の目に入る位置に子供を遊ばせていたと言う事だ。

また、当時から子供たちは決して1人では遊ばなかったと言う。
これは近年の里山の生活を見ても良く解かる。
ご年配の方に聞けは昔は年齢や学年、性別も関係なく遊んでいたと言う。

以前に、【トンデモ地球論】その22でも語ったが、
こうやって集団で遊ぶ事も実は危険を回避するための方法の一つだったと言える。
中の一人が怪我をしたり、池で溺れたりしたとき、
年長に当たる子はすぐに被害にあった子を助けに行く事が出来る。
周りに居るそれ以外の子は近くに居る大人に助けを呼ぶことが出来る・・・
今はトンと少なくなった「子供会」なんていうのも実はこの名残であると解かるだろう。



つまり、その昔は子供たちの遊ぶ場所の近くには
必ず大人の影があったと言う事だ。
村ぐるみで子供たちを大人たちが見ていたということだ。

親と言う語源を紐解くと面白い事が解かる。
今では「父親」や「母親」しか当てないが、
その昔は「祖父」や「祖母」、さらには祖先までを「親」と呼んでいたとされる。
小さな村では村の大人全てが「親」とされていたとも言えないだろうか。



だが、ここまで大人たちが目を光らせていたとしても、
親の目を盗んで、危険な場所で遊ぶ「悪ガキ」って言うのがどうしても出てくる。
そこで大人たちは危険な場所に子供たちを近づけない策を練るわけだ。
それは今で言う「立入禁止」の看板である訳だが、
もちろん、その時代には危ない場所に「立入禁止」なんて看板は無い。
当時の日本の格差って言うのは上から下まで天と地の差があった。
そう言った階層の者は、ちゃんとした語学を習う事も無く、
毎日の生活を一生懸命に生きて一生を終える。
つまり、読み書きが出来なかったのだ。
親が読み書きできないのだから、子供たちも読み書きできない。
かと言って、読み書き自体は生活に支障は無かった。
会話が出来れば、当時の生活は十分過ぎるほど回っていたのだ。
そんな環境が基礎にあるのだから、
読み書きが出来ないのに文字を書いた看板なんて意味がない。

だが、親は子が心配だろう?
危険な場所に遊びに行かせるわけには行かない。
ではどうしたのか?

その答えは簡単だ。
大人たちは子供に「恐怖」を植えつけることによって
危険な遊びをさせないようにした訳だ。

その「恐怖」こそが「妖怪」である。

















日本の妖怪って言うのは、大抵何らかの意味のある存在だ。

有名なもので言えば「河童」だろう。
人が近づかない池にはカッパが潜んでいて、人間の子供を見つけては
池に引きずり込んで溺れさせ、シリコダマを抜いてしまう。
シリコダマとは人間の尻の奥にある架空の臓器だ。
むしろ、魂的存在に近いもので、このシリコダマを抜かれてしまうと、
人は家の外に出るのを怖がり、腑抜けになってしまうと言う。

この河童の存在理由は1つである。
「山奥の人の居ない池に子供だけで行って、誤って泳いで溺れないように」
大人が子供に恐怖心を植えつけたいと言う理由だ。
むしろ、シリコダマなどの話を聞けば、
実際に池に溺れてトラウマになり、家から出られなくなった子供などの
実体験が加えられた話だとも言えなくはないだろうか?
(水死体の尻穴の開いたモノを見てシリコダマを抜かれたと言う説が有名だが)



つまり、子供に危険な事をさせたくない為に妖怪と言う「恐怖」を利用したわけだ。

だが、「妖怪」と言う存在は危険な場所へ行かせない事だけではない。
例えば風呂掃除をしなければ、妖怪垢舐めが出る。
垢舐めが舐めた風呂に入ると体を壊すと言われている。
これはお風呂をキレイに保たなければ病気に成ると言う戒めであると言える。
例えば里山の山道の管理をしなければ妖怪下がりが出る。
馬の妖怪で夜道に荒れた里山の道を歩くと、木の枝が馬の足になって頭を蹴られる。
これは山道を手入れしなければ、木々の枝が伸びて危ないと言う戒めだ。

こうやって子供たちに「恐怖」を植え付けることで
危険な事を行わないように戒めていたと言う事が解かる。
こうやって、目に入らない位置には「妖怪」と言う恐怖を置いて近づけなかった。




その他にも、今現在で言う「立入禁止」の看板に変わる目印もあった。
その一つが「山の祠」である。
「山の神様」とも呼ぶことが出来るだろう。

その昔、里山のような環境に住む人たちは、自分たちの住む区画を2つに別けた。
「管理する場所」と「管理しない場所」である。
昔は里山の管理も全て手作業で行なっていた。
便利の良い機械なんてものは無いに等しい訳だから、
山の中で人が管理できる範囲と言うのは必然と決まってくる。

すると、その里山に住んでいた人は
その「管理する場所」と「管理しない場所」の境に、山の神様を祭り祠を建てた。
その祠を境に住居区側を管理し、
管理しない方は人が入らないように区別するためだ。

何故その様な祠が必用なのか?

最近、里山の話を聞くと良く出てくる話があるだろう?
「最近は山に人が入らなくなって手入れしなくなったから山の中は危ない」
「手入れされていない山は凄く危険だ」なんて風に言われる。
そう、手入れされていない山は非常に危険な訳だ。
だからこそ、子供たちが誤って入らないように、
祠の先は神様が住んでいるから絶対に入ってはいけないと戒めたのだ。

「妖怪」でも「幽霊」でもなく、「神様」が住むとすることで、
悪ガキどもが悪さをしないように・・・
親の目を盗んで危険な場所に行かないようにしたと言える。

だが、それでも目を盗んで山の中に入ってしまう超悪ガキは居る訳だ。
そして荒れ果てた山の中に入ったっきり戻ってこなくなる。
これが「神隠し」な訳だな。
「妖怪」の仕業でも「幽霊」の仕業でもなく、「神」の仕業と言う訳だ。

こういったモノは祠だけに留まらない。
例えば小さな鳥井や立て札に二重丸を書いた危険信号に見えるものもある。

















なるほどな、その昔も「立入禁止」の看板に変わるものはいくらでもあった訳だ。
だが、今まで遊べていたハズの川や池、里山までも、
「危険だから立入禁止」と看板を掲げられるのは何故か?

それこそ簡単だ。
先に述べてきた事が出来なくなってきた。
環境が変わってしまった為に起こっていると言えよう。



子供たちは容易に遠出できるようになった。
自転車はもちろん、バスに電車。
小学生ぐらいの子供なら、一人で乗っていても誰も怪しまない。

親の仕事空間と生活空間に距離が出来た。
多くの人が会社に出勤するのに乗り物を使うだろう?
つまり、それだけ距離が離れているということだ。

夜は随分明るくなった。
その昔の里山なら真っ暗になって外をひとりでは歩けない。
だから、大人も子供も火が暮れる前には家に帰ってきていた。
だが、今は夜は明るく、子供たちの遊び場はいくらでもある。
いや・・・夜遅くまで塾通いの子だってざらに居るだろう?

子供たちが「妖怪」を戒めの対象で見なくなった事も言える。
昔の恐怖の対象であった妖怪は「友達」として描かれる事も多くなったのだ。

また、都市伝説に出てくる新しいオバケは、昔の妖怪のように
「戒めの意味」を持って出てくるケースは少ない。
近年のただの恐怖の対象でしか見なくなったと言える。
それもそのはずだ。
大人が子供たちに戒めを持たせようと考えた妖怪ではなく、
子供たちがただ恐怖心を煽るために作り出したものだからだ。

また、住居区の目は知られなくなった。
「隣は何をする人ぞ?」なんて、人の付き合いも希薄になった。

子供たちが池で遊んでいても誰も見もしない。
誰も気にも留めない。
子供だけで遊ぶ事の危険を注意しない。

















あんなに人が沢山居る公園で、平気で子供が溺れるのだ・・・。

















なるほど。
だから「立入禁止」の立て札が増える訳だ。
昔は子供たちの遊び場だったところは大人の目があったわけだが、
今はその遊び場に大人の目がない訳だ。
だから、そこは「手入れされていない山奥」と同じく危険な訳だな。
だから、山の神様を祭った祠よろしく「立入禁止」の看板を建てるのだ。

危険な場所に「入るな」と目印を建てる事は昔からあったと言える。
それがその昔は生活範囲の外側に位置していたのが、
今は生活範囲の内側に点々としているという違いだろう。
そして、それは昔の里山ような生活から
今の"街"の生活に変わった移り変わりによるものだと言える。

稀に「看板を掲げて子供たちの遊び場を盗むな」といった内容の事を
言う人間が居る訳だが、
そんな人間ほど、逆に事故で子供が亡くなったときは
「親が悪い」「環境が悪い」なんて事を言うのだろうな。
まぁ、バカナオトナにはその意味すら解からないのだろう。





さて、こうやって考えると良く解かる事が一つある。
池などに建てられる立入禁止の札には、
大抵「河童」の絵が描かれていると言うことだ。

私にはそれが、なんとも皮肉にしか見えない。
by mikenekohanten | 2007-07-18 22:36 | 雑談