【はゆのトンデモ地球論】その14

にゃびりぉん はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第十四回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第一回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第十四回目に行きましょう♪

第十四回目のテーマは【人がゴミを捨てる理由・人がゴミを拾う理由・4】です。

















人がゴミのポイ捨を行う行為を「新しい考え方」とした時、
人がゴミを拾ってメンテナンスを行う行為を「古い考え方」となります。

ただし、ここで言う「新しい」と「古い」と言う分類はただ2種を分類しただけで、
「古いから時代遅れだ」とも「新しいから正解だ」と言う意味でもありません。
この前置きを置いたところで、今回の本題に入って行きたいと思います。

















まずは「古い考え方」を見ることにしましょう。

動物は元々、自分の生活空間や子育てを行う巣などを
キレイに(自分の住みやすい環境)に保つ傾向にあります。

そうすると、
道路や公園などにゴミが落ちている事を不快に思って拾おうとする行為は
道路や公園などを「生活空間の一部である」と言う認識の現われであると言えます。

つまり、ポイ捨てされたゴミを拾うのは、
その環境を自分の生活空間の一部であると認識し、
キレイにメンテナンスを行おうと言う考えの下で動いているのです。
そして、道路や公園は自分だけが使う場所ではなく、
その他大勢の人間が共有して利用する空間であると考えたとき、
そこを利用する全ての人に共有意識が存在することになるのです。

家族が生活している家の自分の部屋であれば、
「自分だけの空間」と言うことになりえるでしょうか。
そこから家族が生活する家があれば「家族の空間」になります。
更にそこからいくつかの家族が生活する住宅があると「住宅街の空間」になり、
広がれば村、町、市、県、国、地球となります。



こういった考えは古くからある考え方だと言えます。

例えば今からずっと昔の"農民"の方の田んぼ作業風景を考えて見ましょう。
まずは自分の田んぼをキレイにメンテナンスし、田んぼを管理します。
自分の田んぼの管理が終われば、まだ作業の終わっていない田んぼの手伝いに行く。
自分たちの周りの田んぼのメンテナンスが終われば、あぜ道のメンテナンス。
あぜ道は自分の田んぼに沿った場所から共同の道路にまで及び、
それが終われば続いては水路のメンテナンスに変わります。
水路は多くの農民が利用するため、共同でメンテナンスを行います。

つまり、お互いが助け合ってお互いの空間を作っていく。
自分が利用する場所も、他人が利用する場所も、
その双方が利用する場所も全部ひっくるめて生活空間であるという考え方。
これが古い考え方と言えます。






また、互いを助け合うために昔の人は次のような言葉を残しています。
情けは人の為ならず、明日は我が身と思えば易し
人に対して情けをかければ、やがて自分に帰ってくるときがあると言う意味の言葉。
これは決して「見返り」を必ず求めるものではなく、
「自分が困っているときに誰かが情けをかけてくれることもあるだろう」と言う提示であり、
しかしながら、自分が困っているときに帰ってくるであろう保険になっているのです。

そして、この言葉は
互いが互いを助け合って生きていく方法を
如実に表していると言えるのです。



生き物の生活は絶対的に1固体では生活できません。
必ずどこかで他の生き物乃至は無生物の恩恵を受けて生きています。
その中で"人間"と言う種は同種で互いに協力し合って生きていく進化を遂げました。
しかし通常"生き物"は必ず自分を優勢に保とうとします。
つまり、ライバルを蹴落とすと言う考え方です。
それは人としても同じで「他人を助けると言う行為」は固体としては行いません。
けれども人間は進化において、助け合って生きていく道をとったのです。
だからこそ、他を蹴落とすのではなく、他と共存する自他共栄の考えを
情けは人の為ならず」と言う言葉に残し、
自分も、他人も全て自分である」と言っているのです・・・。



ポイ捨てされたゴミを拾う行為・・・
こういった行為の積み重ねが、互いを助け合うと言う考え方に繋がる。
そう言った拾い意味合いで考えても「昔の考え方」の大切さを知ることが出来ます。

















では、逆に「新しい考え方」はどうなのか。
次回に考えて生きたいと思います。
by mikenekohanten | 2007-03-06 22:54 | 雑談