【はゆのトンデモ地球論】番外編4

にゃくがー はゆです♪

これは はゆのトンデモ地球論、番外編です。
ですが、後日トンデモ地球論本編に加えられる可能性があります。

 →【はゆのトンデモ地球論】
















今回のはゆのトンデモ地球論・番外編では、
少し趣向を変えて「トトロの裏話」を見ていきたいと思う。

その前に。
今回の話には映画・となりのトトロのストーリを準えて話を進めていく事や
本来の映画のメッセージを歪曲した形で伝える内容を含む。
つまり、俗に言うネタバレと呼ばれるものになる。
まだ映画本編を見ていないという方は、是非本編を見るまでは
今回のトンデモ地球論は読まないで頂きたい。

















巷で囁かれている、トトロの裏話と呼ばれる都市伝説があると言う。

















物語の後半で、メイが行方不明になるシーンがある。
物語の大きな山場である訳だが、このとき、メイは既に死んでいるという話だ。


サツキとメイの母親は難しい病。
その為、都会から隔離施設に移るため草壁一家が田舎に引っ越してきた。

そんな中で、サツキとメイはトトロに出会う。
トトロは死神のような存在。死の近い人間にだけ見える。
ネコバスはあの世とこの世を結ぶ乗り物。

メイは母親にトウモロコシを届けようとして一人で家を出て、沼に落ちて死んだ。
その後、池からメイのサンダルが見つかる。
サツキはそれを見てメイのものだと解かったが、
皆に心配をかけないように「メイのじゃない」とウソを言う。

そしてサツキはトトロに言う。
「お願い、メイを探して」
メイは既に死んでいる。
即ちメイのところとはあの世を指す。
ねこバスの表示がくるくると回る。
"塚森"、"長沢"、"三ツ塚"、"墓道"、"大杜"、"牛沼"、"めい"と変わる。
"墓道"を通って"めい(冥)"に通じる。

そして、2人は6体の地蔵の前で出会う。
これは六道の辻を表しているのではないかとも言われる。
六道の辻とは、平たく言うとあの世とこの世の境目の事だ。

2人が出会った後、メイが母親にトウモロコシを届けたいと知り、
ねこバスは七国山病院に連れて行ってくれるが
このときの表示だが、七国山病院の"院"の文字が逆さになっている。
体を治す為に通う病院がひっくり返っていると言うのは不吉の象徴とも言える。

そしてその後、最期に母親にトウモロコシを届けて消える。
母親が「サツキとメイが笑ったように見えた」と言ったのは
サツキとメイが霊となって逢いに来ていた・・・と。

















実は、この映画をリアルタイムで映画館で見たのだが、
このとき、私も一緒に見た友達との間でいくつか話をした記憶が残っている。

例えば、「あの沼で見つかったサンダル、メイのでないなら誰のもの?」とか
「あんなに母親に会いたがっていたメイが母親に会えたのにも関わらず、
 話などをする事無くトウモロコシだけを置いて帰ってきたのか?」などだ。

もちろん、当時はただ疑問に思っただけで、
先に述べた都市伝説のような考え方を持っていた訳では無いが。

















実はネタを明かすと、このトトロの裏話は作られたものだ。
・・・と言うのも、スタジオジブリが公式に否定しているからである。
もちろん、公式に否定しているからと言ってそれが真実とは限らないが、
少なくともオフシャルが否定している以上、それ以上の発展は無い。

こう言った国民的アニメには概ねこういった都市伝説が生まれ易い。
一時期噂で流れた、ドラえもんの最終回などもそれに近い感覚だろうか。

都市伝説って言うのは面白い。
最初は誰かが言い始めた他愛も無い噂だが
それが口伝で広がる時に、"穴"を"保管"していくのだ。
穴が保管されるたびに、その噂は完璧なものになっていく。

どうだろうか?

上のトトロの裏話だけを見ると、どう見たって真実のように感じてしまう。
けれども、実際にトトロの映画を見て感じた感情は
物語上暗い表現も多いが、最期のハッピーエンドを見て、
あんな裏話を考える隙は無かったに違いないのだ。

















さて、実は上の都市伝説を知って、妙にトトロが見たくなってしまった私は
思わずビデオデッキとトトロのビデオをダンボールから取り出して見てしまった。

こうやって改めてみると、昔に見た感じとはまた違った見え方が出来ると思う。
そして、改めてこの"となりのトトロ"という映画は実に良く出来ていると実感した。

ココから先は私がこのとなりのトトロに見る解釈を語ることにしよう。






となりのトトロの映画は
草壁一家が都会から田舎に引っ越してくる事により始まる。

サツキとメイは都会の子=現代の子の象徴だ。
物語の前半はただ只管に「田舎の風景の美しさ」を描き続け、
美しい緑の山々に棚田、小川のせせらぎに泳ぐ小魚やオタマジャクシが見られるが、
サツキとメイはこれを一々感動するのである。

そして、サツキとメイが暮らすことになった家は随分と面白い形状をしている。
純和風の平屋の作りに、洋風の屋根裏付き洋間がある。
サツキとメイを現代の都会の子の象徴とするなら、
これは現代と昔の融合と見ることが出来る。

この考えで行くと、サツキとメイの名前の由来も意図的なモノを感じる。
サツキは5月を陰暦で表す皐月と言え、実に日本的である名前に対し、
メイは5月を英語で表すMayであると解かり、現代的であると言える。

また、母親が病院に入院していると言う事も興味深い。
物語の前半では父親とサツキで
家の仕事を分担して行なっているシーンが多々見られる。
都会の子=現代の子と考えるなら
片親が居ない環境を象徴しているように見えるのである。



さて、現代の都会の子の象徴として描かれているサツキとメイであるが
実はこの2人には劇中で大きな違いを見ることが出来る。

引越しから1ヶ月ほどたったと思われる時期、
サツキは学校に通っているのだが、友達が居る事が描かれている。
劇中では学校で勉強に励むシーンで親しい友達と話す姿や
友達の家に遊びに行く姿も見られる。

しかし、メイは逆に、劇中で同年代の友達が出てくる事は無い。
また、劇中に描かれるのは一人遊びなのだ。
現代の都会の子の象徴として描かれている2人にもこのような違いがある。





そんな一人遊びをしているメイであるが
トトロと初めて出会ったのも一人で遊んでいるときである。
半透明な小トトロを見つけて、中トトロも発見し、追い掛け回し、
秘密の抜け道を抜け、大トトロと出会うのだ。

このとき劇中で1度目のメイの行方不明が起きる。
事件としては対した事では無く、すぐに発見されるのだが、
これは子供が1人で遊ぶ危険さを表していると言える。
劇中で何度か表現されている事だが、
小さな子供が何かに興味を持つとそれしか見えなくなる。
小トトロを発見したメイは、一心不乱に小トトロを見つめる。
メイの周りを飛ぶキチョウにすら気を捕られる事が無いくらいの集中力だ。
この時代の頃の4歳児は通常母親と一緒に居る。
その母親が居ない草壁家ではその危険性は非常に高い。
私にはここでもまた、母親が居ないと言うキーワードが象徴的に感じた。

2度目の迷子は物語の山場になる部分だ。
メイが母親の為に一人で七国山病院に向かう。
大人の足で3時間かかる道のりだ。
映画の前半では父親がメイとサツキを自転車に乗せて向かうが、
途中で休憩の時間を挟むなど、やはり相当の時間がかかるものと思われる。
そんな中を4歳の子供が1人で歩いていくのだ。
迷子になるのも頷けるだろう。
以前にトンデモ地球論・番外編3で語った事だが、
昔は、子供たちが遊んでいるところの近場には大人たちが働きそれを見ている。
これにより子供たちの安全が守られていた。
だが、メイはその"目"を掻い潜って迷子になった。
これは物語上の都合もあるのかもしれないが、
やはり、子供が1人で行動を起こす事の危険性を表しているようにしか見えない。





さて、迷子になったメイだが、
上の都市伝説の中でも語られたとおり6体のお地蔵様の前で座っている。

劇中には何度かそう言う日本的なものが見られる。
家の隣の塚森には鳥居に社があり、
夜の雨の中、父親を待つバス停にはお稲荷様がある。
また、お地蔵様は別の場面でも描かれている。

夜の雨の中、父親を待つバス停にあるお稲荷様の表現も美しい。
神聖なもので、土地を守るハズのお稲荷様だが、
夜の雨もあってか、メイには恐怖に映ったようだ。

サツキがメイをつれて学校から家に帰る途中、雨が降り始める。
仕方なく、お地蔵様の社で雨宿りする。
サツキはお地蔵様に「雨宿りをさせてください」と拝む。
私には、このシーンがメイが迷子になったときに
お地蔵様のところで座っていた姿に重なる。
メイは、ちゃんとサツキの行動を見ていたのではないか? と思えるのだ。
お地蔵様には道祖神を含むものも多く、安全な旅の道中を祈るものともいえる。
道に迷子になったメイがお地蔵様の前で動かず誰かが通るのを待っていたのは
私には凄く印象的に見えたのだ。

劇中に、不思議な生き物は多く登場するが、「神様」は一度も登場しない。
それどころか、蔑ろにされていると見える節がある。
トトロの住む塚森の社は荒れ放題だし、
メイが最初に迷子になったときにトトロと出合ったあと、
メイとサツキと父親は塚森の主に挨拶をしにいくのだが、
この時3人が拝んだのは社にではなくて塚森の巨大なクスノキだった。
メイが迷子のときに居たお地蔵様などでも、
神様が助けたのではなくて不思議な生き物によって助けられた。

私にはこの神様の扱いが、
神=トトロやねこバスのように見えるのだ。
"神は全知全能では無く、少し不思議な生き物である"
そんなキーワードが込められているようにも見えた。





さて、そんな不思議な生き物のトトロであるが、
このトトロとは一体何者であろうか。

一見すると、妖怪や物の怪の類に見えるが、
劇中で妖怪として語られるのはススワタリのみである。
隣のおばあちゃんは「そんな恐ろしいものでは無い」と言うが
誰も居なくなった家に住み着いてアチコチを煤で真っ黒にしてしまう、
手入れをしていなければ汚れてしまうと言う戒めを持った存在である事が解かる。
これはトンデモ地球論・番外編3で語った事だが、
一般的な妖怪の定義に当てはまるものである。



しかし、トトロやねこバスはそう言ったものでは無い。
むしろもっと自然的な力の表現が多いように思われる。
例えばトトロは植えた木の実を大木にする力を持ち、
コマに乗って風になる事も出来る。
ねこバスも同様に普通の人には見ることが出来ず、
木々がねこバスを避け、ねこバスが駆け抜けた風がつむじ風を生む。

物語中に一度サツキがトロルに当てるが
この表現からトトロやねこバスはその地球にある自然的な力、
精霊を表す姿のように見える。

その様に見ると、
実はオープニングの「となりのトトロ」のタイトルにはイロイロ含まれている。
小トトロが画面の端から端に向かって歩いていく。
小トトロの肩には小さな子袋。
小トトロが歩いていくと、ポツポツと種が落ちていく。
やがてその種が若葉になったかと思うと、
それは実はトトロの耳で小トトロが沢山生まれる。
そしてその小トトロがトトロと言う文字を象る。
劇中にも何度も"ドングリ"が登場し、芽生えのシーンも見られる。

つまり、自然的な力にトトロのような精霊を重ね合わせている事が解かる。





その様なトトロであるが、劇中通してトトロにメイとサツキは4度出会う。
1つめはメイが秘密の抜け道を抜けて初めてトトロと出会う。
2つめはサツキとメイが父親の迎えでバス停で待っているとき。
3つめはトトロのくれた木の実を植えた畑。
4つめはメイが迷子になってサツキがトトロにお願いするとき。

これら、トトロの逢う条件には"眠り"と言うキーワードが見られる。

1つめのメイが秘密の抜け道を抜けてトトロと出合った時は
メイはトトロのお腹の上で寝てしまう。
起きると、秘密の抜け道の中に居て、トトロはどこにも居ない。
一見するとメイが見た夢であるように見える。
こう見ると、半透明で見つかってしまった小トトロは
現実と夢の微睡み狭間のように見えて仕方ない。

2つめのサツキとメイが父親の迎えでバス停で待っていた時は
メイが疲れて眠ってしまう。
サツキは眠った訳では無いが、
サツキとメイが共に五月を表す子供である事を考えると、
サツキが起きていて、メイが眠っている・・・
即ちここでも、現実と夢の微睡みの狭間を表現したように感じる。

3つめのトトロのくれた木の実を植えた畑での出会いはもっと解かり易い。
サツキもメイも一度眠ったが、真夜中に庭の異変に気づく。
この時、サツキとメイの植えた木の実は大木になるが
朝起きるとそれは無くなり夢だと解かる。
けれど、畑には芽が出ているのだ。
この時、サツキとメイが印象的なセリフを言う。
「夢だけど、夢じゃなかった」
ここでもまた、現実と夢の微睡みの狭間の表現が垣間見れる。

4つ目のトトロとの出会い。
サツキがトトロに逢いたいと思って秘密の抜け道を抜けるのだが、
実はこの時だけは「夢」の表現が一切出てこない。
だが、奇妙な表現としてサツキとメイが母親の元にトウモロコシを届けた時に、
両親はその姿がが見えなかった(見えた気がした)。



実は先に述べられた都市伝説にあったメイが死亡したのではないか? と言う裏話。
あれは強ちハズレではないのでは無いかとも言える。

これまで現実と夢の微睡みの狭間の表現だったのが、
4回目に逢ったときのみ現実であった。
しかし、両親にはその姿が見えなかった事を考えると、
精神的表現であったと言えるのだ。

しかし、捉えるなら都市伝説にある「メイ死亡説」ではない。

6体の地蔵の前で座り込んだメイ。
これが六道の辻を表している。
六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つ世界で
辻とはその6つの世界を繋ぐ交差点。
人の魂はその道を通って輪廻転生を繰り返す。
しかし、メイはその道を通らずにその道の前で待ち続けていた。
姉のサツキが迎えに来てくれるのを。

そして、サツキはあの世とこの世の狭間に立つメイを見つけ現世に連れて帰る。
その途中に寄り道で母親に逢いに行ったのだ。





エンディングではねこバスと分かれた後、
メイは隣のおばあちゃんやカンタと再会する。
これは穿ってみる事をしなければメイが無事帰ってきた事が描かれている。

つまり、子供が一人で遊ぶ事の危険性を訴え、
今回は、不思議な力を持つ"神"的存在に助けられた。
そしてハッピーエンドで終わるのだ。





エンドといえば、エンドロール内でもいろいろと描かれている。
劇中でメイは1人で遊ぶ姿しか見られなかったのに対し、
エンドロールでは多くの友達と遊ぶ姿が映し出される。
また、自分より年下の友達も出来、お姉ちゃんとして子守もしている。
物語の導入で現代の都会の子として表現されていたメイの変化である。





最期に。
映画全編を見終えて、この映画が翌々凄いと思えたのはその細かな表現力だ。
草壁一家が引っ越してきたのは5月である。
長閑な田んぼの風景には水が張られ、馬が田の中に居る事が見て取れ、
田植えの前の田起こしをしている事が解かるだろう。
田んぼの畦にはキハナショウブが見られ、
草壁一家が引っ越した家の庭にある湿地にはノハナショウブが見られる。

一人遊びするメイが摘んできた花はタンポポ。
田植えが終わったあとの庭の湿地の水溜りにはオタマジャクシで
庭に咲く花はオオバコやオニノゲシのようなものに、
ヒメジョオンやアザミのような花も確認できる。
オオシオカラと思われるトンボが飛ぶ。
更に秘密の抜け道の前にはツユクサが見られる。
太陽とカタツムリ。
梅雨の雨とアジサイの花。
雨の中を歩くヒキガエル。
杉の葉から滴り落ちる水の雫

乳山羊の長方形の黒目やスキッ歯。



生き物だけじゃない。
その生活観も。

まっくろくろすけが屋根裏に逃げ込んだときの映像では
ちゃんと上棟が供えられていた。

田植え休みに母親のお見舞いに行く。
もちろん、カンタや隣のおばあちゃんは田植えを行なっている。
カンタは朝、ニワトリに餌をやり、卵を収穫する。
7月になると、蚊帳を張る姿。

細かな再現が里山に見えるのだ。
まさに、この映画が里山をテーマにした一つのテーマパークなのである。
by mikenekohanten | 2007-08-06 19:57 | 雑談