【はゆのトンデモ地球論】その34

にゃいでぁ はゆです♪



はゆのトンデモ地球論、第34回目です。
でも、読まれる前には注意があります。
はゆのトンでも地球論は第1回目から順番にお読みください(`・ω・´)

 →【はゆのトンデモ地球論】
















では、【はゆのトンデモ地球論】の第34回目に行きましょう♪
今回のテーマは「シガラミと先行投資的考え3」です。

















さて、前回まででシガラミと言う言葉の持つ意味を説明してきた。
これを私たちの生活に入め込んでみても面白い事が解かると思うのだが、
ここでは少し、子供たちに入め込んで考えて見たいと思う。





一昔前に「挨拶をしなくなった子供たち」と言うキーワードが随分流行ったように思う。
皆さんはこのキーワードを耳にした事があるだろうか?
近年になればなるほど聞かれなくなってきた事なのだが、
実はこの「挨拶をしなくなった子供たち」もシガラミを考えればその意味が見えてくる。










まず、子供たちの行動にシガラミを当てはめる前に、少し「挨拶」について考えよう。

挨拶とは何か。
いろいろな考え方はあるかもしれないが、
大きく言われることはコミュニケーションであると言えるだろう。

もう少し正確に言うなれば、コミュニケーションの導入部であると言える。

例えば、「おはよう」は「お早いですね・・・・」と言う言葉が短縮されたものだが、
本来であれば「お早いですね・・・」の後に日常会話などの言葉が続く。
つまり「あなたと会話します」と言う意思表示こそが挨拶といえるのだ。

例えば挨拶は「おはよう」「こんにちわ」「こんばんわ」以外にもある。
有名なもので言えば大阪では「もうかりまっか?」と言う言葉がある。
おそらく今、実際に使っている人は少ないのだろうが、
商業都市とも言える大阪ではコミュニケーションの導入部に
「おはよう」などの言葉よりも「もうかりまっか?」の方が
都合が良かったのだろうと想像することが出来る。
ちなみに、こう言ったコミュニケーションの導入部に成り得る言葉は地方にいくらでもある。
私は香川県の出身であるが、
香川では「なんがでっきょんな?」がコミュニケーションの導入部だ。
「何か出来ているのですか?」から会話に入るための導入部と言える。

また、私は挨拶が持つ意味の一つにコミュニケーション以外に、
仲間意識が大きく含まれると思っている。

先にあげた大阪の方言や香川の方言は、今でこそ通じる点もあるかもしれないが、
他の県に住んでいるものが行き成り言われても通じないだろう。
つまり、挨拶はコミュニケーションの導入部であると共に、
相手が自分の仲間であるのかを識別する方法でもあったのではないかと私は考えている。



続いて、「挨拶」と言う漢字の持つ本来の意味を見てみよう。
 「挨」は押しのける。
 「拶」は迫りよる。
つまり、競り合い押しのけあう姿が「挨拶」である。
これは元々、禅における問答から来る言葉で、
位の高い僧が修行僧に問答を行い、
返答から相手の考えを知り、その悟りの深さを試した行為から来ている。
ここから、問答をする事は互いに情報を交換する行為に繋がる事や、
互いに敵意が無い事を示す事、仲間である事の確認と言った意味合いから
「挨拶」を行なうようになったと言われている。

平たく言えば、互いが常に情報交換をする事で相手を知る為の手法と言える。
茶道などには一挨一拶と言う言葉で残っているのも頷ける。
一挨(一つ押す・一回、話を聞く)と一拶(一つ迫りよる・一歩相手に近づく)



ここから見ても、やはり「挨拶」がコミュニケーションの導入部として大切である事、
また互いの人間関係を円滑にするところが見え隠れする。
これが「挨拶」の本来の意味だと言えよう。










さて、本題に戻ろう。
少し前に言われていた「挨拶をしなくなった子供たち」だが、
本当に挨拶をしなくなったのか? と問えば、それは嘘となる。
子供たちはちゃんと挨拶をしているのだ。
学校に行けば、親しい友達に「おはよー」と挨拶している。
以前、仕事柄、小学校に出入りする事が多かったが、
登校時の子供たちの賑やかな挨拶の声は私自身が良く知っている。

では、子供たちが挨拶をしているのであれば、
「挨拶をしなくなった」とはどういうことなのか?

この「挨拶をしなくなった子供たち」と言う言葉は
正確には「子供たちが挨拶する相手を選び始めた」ではないだろうかと思う。

先のトンデモ地球論33で述べたことだが、
正のイメージのシガラミ負のイメージのシガラミの関係である。

挨拶をしなくなったと言われる子供たちに、この正と負のイメージを当てはめると、
友達同士の挨拶はまさに正のイメージのシガラミにあたる。
互いが情報交換を行い得ることで互いが得をする存在なのだ。
即ちなのである。

では、挨拶をしなくなったのは?
負のイメージのシガラミで言えば、「挨拶をする必要のない相手」となる。

挨拶を行なうのは先にも言ったとおりコミュニケーションの導入部と言える。
つまり、コミュニケーションを取る必要がない相手に挨拶をする必要はないのだ。

近所の子どもが挨拶をしても返事をしない、と言うのであれば、
その近所の子どもはあなたに対して「挨拶する必要がない」と思っているのである。

もちろん、小学生の子供がそこまで深く考えているとは思わない。
だが、親しい友達には積極的に挨拶をする姿を見れば解かるだろう?
正のイメージのシガラミ」はであるが、
負のイメージのシガラミ」は苦(またはどうでも良い事)であるのだ。

人生経験の少ない子供たちは容易にを選ぶ。
自らの意思でを選ぶものは少ない。

こう考えれば「挨拶をしなくなった子供たち」と言うのは間違いで
正確には「子供たちが挨拶する相手を選び始めた」と言う事が解かるのだ。










この結論が出れば、逆に一つの疑問点が浮かんでくるだろう。
それは「では、何故昔の子供たちは挨拶をしていたのか?」である。

それは・・・言うまでもなく簡単な事だと言える。
昔の子供は負のイメージのシガラミを持っていたからだ。

昔の子供たちを取り巻く環境、近隣の環境を見れば、それらがすぐに理解できる。
昔は「町内会」や「婦人会」、「農会」や「子供会」などの地域ぐるみの付き合いが強かった。
近所に住む人たちが家族ぐるみの付き合いをしているのはもちろん、
近所に住まない人であっても、どこの誰であるかを把握しているケースもあるだろう。
そこで親は子供たちの躾として、挨拶の徹底をしたのだ。
知らない人でも挨拶をする。
地域ぐるみでの付き合いを円滑に進めるためには、その躾は必要不可欠だったのだ。
更に、子供たちは子供たちで、その負のイメージのシガラミを知っていた。
遠くの場所で悪戯をしても、大抵その悪戯行為を行なった事は親の耳に入ってくる。
つまり、どこで誰が見ているか解からない状況だからこそ、
子供たちもまた知らない人にも挨拶をしていたのだ。










諺に「旅の恥は掻き捨て」と言う言葉がある。
旅をしていてお金がなくなったら物乞いをしてでも国へ帰る」と言うのが
本来、使われるべき意味合いであるが、
現在においては一般的に
旅先でどのような恥ずかしい事をしても、羽目を外しても、
そこに留まるのは一時的なことであり、自分を知るものもいないから
恥を掻いても、捨てて帰れる
」と言う意味で使われる。

つまり、前者も後者も平たく言えば、
旅先では自分を知るものがいないから
少々恥ずかしい事をしても問題ないという意味だ。

これを反して言えば、
地元では自分を知るものが多くいるから、
恥ずかしい行為をしないようにしなければいけないという意味に変わる。

こういった諺を見ても、昔の人が「地域」に対してどのような思いなのかが解かるだろう。
それが子供たちの挨拶にまで気を配る躾になっていたのである。
そしてそれは地域のシガラミと言えるのだ。










では、再び話を"表"に戻そう。
何故、今の子供たちは容易に負のイメージのシガラミを捨てる事が出来たのか。

まさに地域ぐるみの付き合いと言えるシガラミが欠如したのだ。
だから親たちも、子供たちの知らない相手への挨拶に対する躾が弱くなり、
子供たちも親から強く躾けられないため、
自ら負のイメージのシガラミを背負わないのだ。

簡単な話だ。
あなたは隣人の家族構成がわかるだろうか?
隣人がどのような仕事をしているか解かるだろうか?

一つ例えを出そう。
昔は同じ町内の人が亡くなれば、
御通夜や御葬式に町内に住む人たちが借り出された。
もちろん、御葬式にも顔を出した事だろう。
今も田舎に行けばその様な地域はある。

だが、今の時代、
同じ町内の人が亡くなって御通夜や御葬式に借り出される人がどれほどいるだろう。
身内でも知人でもない同じ町内の人の御葬式に顔を出す人がどれほどいるだろう。

先に説明したように「挨拶」は「コミュニケーションの導入部」である。
そして「挨拶」から得るのは「互いの情報」である。
つまり、隣人の情報を全く知らないと言うことは、
隣人と「コミュニケーション」が取れていないと言う事。
即ち、「コミュニケーションの導入部」といえる「挨拶」が隣人と出来ていないと言うことだ。



親が負のイメージのシガラミを捨てようとしている現在に、
子供たちが負のイメージのシガラミを捨てたとしても、それは当然の結果であると言える。

そして、近年、挨拶しなくなった子供たちの話すら聞かなくなってしまった。
最早、挨拶をしない事自体が当たり前となりつつあるのだろうか。

















次回に続く

















・・・ところで、
近年のテレビニュースを見ていると
結構「恥」な事をやっている人が多いと感じる・・・
旅の恥は掻き捨てと言う言葉はもう使えない時代かもしれない。
旅に出るまでもなく、自分を知る近隣がいないのだ・・・。
by mikenekohanten | 2007-10-31 18:52 | 雑談